女教師と男子生徒、許されざる愛の果てに~シークレットガーデン
背後から呼ばれ、心優は振り返った。
本井基が湯気の立つ紙コップを手にしていた。
「色々と大変ですね」
労いの言葉とともにコップを差し出してくる。職員室には職員が自由にコーヒーや紅茶、お茶を飲める装置が常設されている。自分のために気を利かせてくれたのだと判り、心優は小さな声で礼を述べた。
「ありがとうございます。気を遣って頂いて、済みません」
気遣いはありがたいけれど、本井の言葉でやはり、三時間目の出来事がもう学校中に広まっていることを再認識しないわけにはゆかなかった。正直、放っておいて貰いたいと思うが、それは心優の甘えというものだろう。
仮にも教師たる身が生徒を殴ったのだ。このままで済むとは思えない。いずれ遠からず校長に再び呼び出されるに相違ない。
「破廉恥な言葉でうら若い女性を辱めるなんて、とんだ恥知らずなヤツだ。あんな生徒はさっさと退学にしてしまえば良いんですよ」
心優はできるなら両手で耳を塞ぎたかった。?破廉恥な言葉?と今更繰り返すことが心優を更に辱めることだと、この無神経な男は何故判らないのか。それに、仮にも教師が個人的な感情や反感を剥き出しにして一生徒を退学にすれば良いと言い放つのは、どう考えても適切な言動とは思えない。
「僕は前から長瀬はどうも嫌なヤツでした。いや、教師がこんなことを言うのはどうかとも思うが、ヤツは本当にどうしようもない屑のような男ですよ。あんなヤツ、社会に出ても人様に迷惑をかけるだけだ」
心優は悪し様に長瀬を罵倒する本井に怒りを憶えずにはいられなかった。
「本井先生、私は長瀬君を屑だとは思いませんが、教師は教え子を仮にもそんな蔑んだ言い方をするべきではないと思います。よしんば彼が本井先生の言われるような人間だったたとしても、それを教え導き、社会に出ても堂々と生きてゆくことのできる人間に育てるのが学校という場であり、教師というものではないのですか?」
「前橋先生、何も僕はそんなつもりでは」
本井が言いかけるのに、心優は弱々しい口調で言った。
「学校にいる間、教師と生徒は例えるなら親と子です。親が我が子を屑だなんて口が裂けても言ってはいけません」
心優は言葉を失った本井に小さく頭を下げ、コーヒーを持ったまま職員室を出た。
哀しいすれ違い
心優が怖れていたその瞬間は早速やってきた。翌日から長瀬大翔はずっと不登校が続いた。それが七日目になったある朝、心優は校長に再び呼ばれた。
「失礼します」
ドアをノックしても返事はない。外で声をかけてから、心優はドアを開けた。
校長は先日よりも更に難しい表情で椅子に座っていた。あまり身長のない校長には椅子も机も重厚すぎて、深々と座り込んでいる様は椅子に埋もれているようで、いささか滑稽ともいえるのだが―、いつもならともかく今回だけはそんなことを考える余裕はなかった。
「何故、また呼ばれたかは判っているだろうね?」
いきなり問われ、心優は頷いた。
「はい」
校長は深々と大息を吐き出した。
「まったく君にも困ったものだ。この間は長瀬大翔と女子職員用のトイレに二人きりで閉じこもっていたというし、今度は今度でその長瀬を殴ったというじゃないか。また今度も長瀬か? 君たちは本当に噂どおりの仲なのか?」
英語教師の村田のせいかどうかは判らないが、長瀬と自分の間に何かあるのではないかという事実無根の噂が飛び交っているのは知っていた。
先日とは変わり、校長ははっきりと長瀬の名を出した。態度も比べものにならないほど厳しい。
「前任校では諍いらしい諍いをしたこともない君が何故、転任早々、問題ばかり起こすんだ?」
五月とはいえ、この部屋だけは贅沢に冷房が効いている。その暑くもない室内で彼は汗だくになっていた。またも背広のポケットかからしわくちゃのハンカチを取り出した。前回は白だったが、今回は紺色である。―と、心優は馬鹿馬鹿しいことをぼんやりと考えた。
癇性な手つきで額の汗をぬぐい、校長は睨(ね)めつけるように心優を見た。
「長瀬の母親から苦情が来ていてね。もう、煩いったら、ないよ。学校の方でもどう対応するか決めかねていたが、教頭とも相談した結果、やはり彼を殴った君自身が謝罪にいくしかないという結論に達した。とにかく今日中に謝罪に行きたまえ」
「―判りました。この度はご迷惑をおかけしまして、申し訳ありませんでした」
心優は深々と頭を下げた。とにかく今回の件は自分が悪いのだから、仕方ない。教師が感情のままに生徒に手を上げるなんて最低だ。どんな言い訳も通じない。本来ならもっと早くに謝罪に行くべきだったのだろうが、事は心優一人の判断で行動はできない。
校長からもっと早い時点で何らかの指示があるかと待っていたにも拘わらず、呼び出されのは騒動から一週間も経った今日だった。
なので、長瀬に謝りたくても謝ることもできなかった。逆にいえば、これで謝ることができるし、この機会に彼の母親にも逢える。謝罪ついでに話はできないかもしれないけれど、このチャンスを逃せば、母親に逢う機会は永遠に巡ってこないかもしれない。
心優は出来るだけ誠心誠意謝った上で、彼の母に話を聞いて貰いたいと考えていた。
職員室の手前で一年の社会担当の佐藤沙織に出逢った。沙織は職員室を出てきたばかりで、これから教室に向かうらしく出席簿や歴史の教材を両腕に抱えていた。彼女は大勢いる教師の中ではいちばん近い存在だ。
「おはよう」
沙織の方から声をかけられ、心優は微笑んだ。
「おはようございます」
年代が近いとはいえ、沙織はここに来てはや四年目になるし、歳も少し上の先輩だ。やはりため口は控えたい。
「大変だったわね」
沙織は近寄ってくると、小声で囁いた。
「私が至らなくて」
心優が笑って肩を竦めると、沙織は真顔で首を振る。
「あの長瀬大翔が相手では、どんな教師でも太刀打ちはできないわよ。彼の父親がR学園に毎年、多額の寄付をしているのは知ってるでしょう? あれが続く限りは、どうにもならないわよ。だから、あの子が好き放題に学校でやってるのを私たち教師も知らんふりをしているしかないっていうわけ」
心優は控えめに言った。
「でも、沙織さん。私は長瀬君は皆が言うような、そんな悪い子ではないと信じています。ただ、今まで色々ありすぎて、彼が頑なっていうか、自分の心を守ろうとしているんじゃないかって」
その時、心優は自分自身の言葉に愕いていた。
―長瀬が頑なになっている原因は、彼が母親を守ろうとしているからではないか。
その想いは意外にストンと心の中に落ちてきた。彼が何から母親を守ろうとしているのか? それは彼の無責任で薄情な父親でもあり、外国人の母親を偏見で見る世間一般に違いない。その中には数学教師の本井や担任の自分も間違いなく入っているはずだ。
そう考えると、途端に無性に哀しくなった。本当は誰よりも長瀬を理解し味方になりたいのに、自分は彼から敵視されていると思うと、哀しくてやり切れない。それとも、彼の担任というだけで、彼とは何の関係もない自分が彼を理解したいと考えること自体がおこがましいのだろうか。
作品名:女教師と男子生徒、許されざる愛の果てに~シークレットガーデン 作家名:東 めぐみ