女教師と男子生徒、許されざる愛の果てに~シークレットガーデン
今、長瀬が見ているという空を心優もまた眺めながら、改めて彼がどんな想いでこの空を眺めてきたのだろうと思うと、やるせない気持ちになった。
翌日の三時間目は古典の授業だった。今、やっているのは紫式部の『源氏物語』である。昨日、長瀬も言っていたように、今時の高校生にはいささか理解不能の部分もあるようで、特にイケメン貴公子や華やかな恋に憧れる女子生徒とは異なり、男子ばかりのこの学校で生徒たちにこの日本文学の最高峰といわれる物語の良さを理解させるのは難しい。
「いづれの御時にか、女御・更衣あまた候ひ給ひける中に、いとやむごとなききはあらぬが、すぐれて時めき給ふありけり」
心優が教科書を朗読しながら、生徒たちの机の間をゆっくりと歩いていたときのことだ。
「先生、質問」
ふいに手を上げた生徒がいた。
「はい、小柳君、何ですか?」
小柳有樹は割とおとなしい方の生徒だ。最初の自己紹介のときも、まともなことを喋った少数派に属していたほどである。だが、時として、このように突飛な質問をするときがある。
「あまたさぶらひたまひける中って書いてるけど、天皇には一体どれくらいの奥さんがいたんですか?」
心優が応える前にまた誰かが言った。
「数え切れねえほどだってよ。羨ましいねぇ」
そのひと言に教室中が笑いに包まれた。
「そうですね。昔の中国の後宮などでは皇帝の愛を受けた女性は一千人とも三千人ともいわれています」
心優が説明を始めると、また誰かが言う。
「へえ、三千人? それってやり過ぎっていうか、一人で三千人とやったら、死ぬんじゃない?」
「アホか、そんなのは嘘か作り話だよ」
また野次が飛ぶ。心優はコホンと小さく咳払いした。
「もちろん、そのとおりです。三千人というのは皇帝の権威を皆に知らしめるために大袈裟に言ったと思われます。日本の場合、源氏の時代設定は平安辺りなので、多くても一人の天皇の後宮には十人程度ではないでしょうか」
小柳がまた発言する。
「僕は十人でも羨ましいです」
またドッと教室が湧く。と、最前列にいる青田が鼻を鳴らした。
「俺の親父は十人以上いる女どもを毎日、取っ替え引っ替えしてるぜ」
その言葉に笑いが止んだ。あまりにリアルな言葉に、流石の現代っ子も何と反応して良いか判らない様子だ。
「くだらない自慢だな」
ふいに後方で声が響いた。確認せずとも、声の主が誰であるかは判った。不思議なことに、体育と理科以外は殆どの授業をサボる長瀬が心優の古典だけは欠かさず出席した。とはいえ、いつも机に突っ伏して眠っているか、いかにもつまらなさそうにしていて、ろくに話は聞いていないようには見えた。
だが、すかさず反応があったところを見ると、一応話は聞いているのだろうか。
「今は法律でも一夫一婦制だろ。なのに、囲ってる女の数を自慢するなんて、馬鹿を自分から広言してるようなものじゃないか」
「おい! それはどういう意味だ」
青田が立ち上がり、後ろを向いた。射貫くような眼で長瀬を見つめている。青田が怒るのも無理はない部分もある。誰がと明確に言わなかったけれど、長瀬は青田の父を指して暗に?馬鹿?と言ったのだ。
しかし、授業中にそもそも父親の女関係を持ちだして愚かな発言をしたのは青田の方で、元凶は青田自身にあるともいえる。
「そういうお前の母親だって、囲われ者だろうが」
青田が憎しみに満ちた口調で断じた。
「二人とも、もう止めなさい」
このままでは大変なことになってしまう。心優は慌てて止めに入った。
「青田君、あなたの家のことについてとやかく言うことはできないけれど、奥さん以外の女性と親しく付き合っているという行為はあまり自慢できることではありません。真剣であるべき授業中にお父さんのことを口に出したあなたにも落ち度はあります」
更に長瀬に向かって言う。
「長瀬君も言い過ぎです。相手が幾ら言いたい放題言ったからといって、それに応じて自分も相手を貶めて良いというものではありません」
「先生は青田の味方をするのか?」
長瀬が低い声で言った。心優は首を振る。
「そういうわけではありませんが、教師はいつも公平でなければならない。私はどちらかだけの味方はしません」
ガタリと静まり返った教室に椅子の音が響き渡った。長瀬はデイパックを担ぐと、後方の入り口に向かっていく。授業を中断するのは明らかだ。
「長瀬君、待ちなさい。勝手は認められませんよ」
心優は走って長瀬のところに行った。何としてでも彼が出ていくのを止めるつもりだ。
彼が一瞬、立ち止まり、心優はかすかな期待をこめて彼を見た。が、彼は思ってもみなかったことを言った。
「胸、揺れてるよ」
え、と、心優は小首を傾げた。
「先生のおっぱい、でかいからさ。あんまり血相変えて走ると、揺れるのがもろ、丸見え。少しブラの種類変えた方が良いんじゃない?」
嘲笑するような声に心優の心はナイフを深々と突き立てられたようだ。凍り付く心優の耳にまた別の生徒の声が追い打ちをかけた。
「先生、バストのサイズは?」
「俺が見たところ、九十は固いね」
「Eカップ、Fカップ?」
また教室中に卑猥な冗談が飛び交い始めた。それも長瀬が放ったひと言が原因だ。
「良い加減にしなさい」
考えるよりも先に手が出てしまった。殴られた長瀬よりも殴った心優自身が茫然としていた。
長瀬が底冷えのするような眼で心優を見る。弟のように思っていた彼にこんな眼で見られる日が来るとは考えたこともなかったのに。心優の心が哀しみの氷で覆われる。
「やりやがったな」
長瀬の瞳には静かな怒りの焔が燃えていた。もしかしたら憎しみすら宿しているかもしれない。凍てついたその視線は視線だけで人が殺せそうなほどだ。
長瀬が身じろぎした。
―殴られる!?
心優は思わず眼を閉じる。だが、永遠にも思える沈黙が続くだけで、何も起こらなかった。心優が恐る恐る眼を開くと、長瀬があざとい笑いを浮かべた。
「俺は生憎と女は殴らない主義なんでね」
そのままもう心優には眼もくれず出ていく。心優は慌てて彼を追いかけて廊下に出た。
「長瀬君、このままじゃいけないわ。本気で大学に行きたいと思うのなら、ちゃんと授業に出なくては。ね、一度、お母さんと話をさせて」
既に心優に背を向けて数歩先を歩いていた長瀬が立ち止まった。首だけねじ曲げるようにして振り返る。その瞬間の氷のような微笑に心優は眼を見開いた。
美しいけれど、瞬時にして人の生命を奪う空怖ろしい氷。彼の微笑はまさしく凄艶そのもので、魅惑的だけれども、空恐ろしいものだった。彼の瞳には何の感情もない、ただ永遠に明けることのない闇がひろがるばかりだった。
「先生、俺は女には暴力はふるわない。だが、これ以上俺にしつこく纏いついてきたら、後悔することになるぞ?」
言うだけ言うと、彼はもう振り向きもせずに足早に去っていった。心優は悄然として教室に戻り、後はとりあえずは何事もなく授業を終えた。
彼を引き止められなかった。その想いは一日中、心優を捉えて離さなかった。すべての授業を終え、無力感に打ちひしがれて職員室に戻った。自分の席に座り込み、重い溜息を洩らす。
「前橋先生」
作品名:女教師と男子生徒、許されざる愛の果てに~シークレットガーデン 作家名:東 めぐみ