女教師と男子生徒、許されざる愛の果てに~シークレットガーデン
物想いに沈んでいると、沙織が何か言いたげな視線を寄越しているのに気づいた。
「何か?」
「あのね、こんなことを言うのは失礼かもしれないんだけど」
彼女はここで少し言い淀み、後は思い切ったようにひと息に言った。
「心優ちゃんは本当のところは長瀬君とはどうなっているの?」
「沙織さん―」
沙織だけは偏見や噂に惑わされることなく自分を見てくれると信じていただけに、この言葉はやはりショックだった。が、沙織が言いたかったのは別のことらしい。
「違うのよ、噂が真実かどうかなんて、私は興味はないの。ただ、今のあなたの様子って何て言うか生徒を庇う教師というよりは、愛する男を守る恋する女のように見えたから」
「沙織さんには私がそんな風に見えたんですか?」
沙織は苦笑した。
「単なる勘違いだとは思うけどね」
更に表情を引き締めた。
「でも、これだけは憶えておいて。あなたは長瀬君を庇うけれど、私はそれについては否定的なのよ。彼には今までとかくの噂がありすぎるし、現実として校内でも問題を起こしてる。だから、余計にあなたのことが心配なの。長瀬君に肩入れするのはほどほどにして。さもなければ、心優ちゃん自身が彼の中に巣喰う闇に飲み込まれて二度と陽の当たる場所に帰ってこられなくなるわ」
沙織は比較的人を色眼鏡で見ることのない人だと思っていたのに、やはり彼女までもが長瀬を問題児だと思っていた。
現実として沙織の言う方が正しいのかもしれない。人は誰しも物事の表面しか見ない。これまで長瀬が不特定多数の人々に与えてきた印象は彼自身がまた作り上げてきたものである。つまり、彼はそれだけの問題、或いは悪評の立つことをしてきたのだ。
だが、人は同時に彼がその裏で何を思い、どれだけの傷を負ったのかは知らないし、知ろうともしない。彼がますます頑なになってゆく原因はその辺りにありそうな気がするのだ。
とにかく沙織が先輩として心配してくれている気持ちはよく伝わってきた。心優は笑顔を作り、礼を言った。
「ありがとうございます」
「本当よ、私の言ったことを忘れないでね?」
二人の間を他の教師たちが次々と通り過ぎていく。その中には数学の本井もいた。本井がゆき過ぎようとして、つと振り向いた。心優を認めてやってくるのに、沙織が目配せした。
「じゃ、私はこれで。本井先生、おはようございます」
「おはようございます」
本井も丁寧に挨拶を返している。沙織の姿が廊下の角を曲がり完全に見えなくなったのを確認してから、本井は心優に愛想良く笑いかけた。
「おはようございます、前橋先生」
「おはようございます」
心優ももちろん、そつなく挨拶を返す。
「聞きましたよ、今日の放課後、長瀬大翔の家に行くんですって?」
恐らくは校長から聞いたのだろう。隠すこともないので、心優は頷いた。
「はい。とにかく私の方が悪いのだから、背心誠意謝りたいと思います」
本井は複雑そうな顔だ。色々と彼なりに言いたいことはあるのだろうが、一週間前、心優と長瀬のことで口論状態になったのを忘れているはずがない。態度には少しも出さないけれど、流石に今日は長瀬を悪くは言わなかった。
「一人で大丈夫ですか? 何なら僕がついていきますよ」
一週間前の件はともかく、本井なりに心配してくれているのも判るので、心優は丁重に辞退した。
「お気持ちはありがたいと思いますが、やはり、これは私自身の問題です。なので、今回は私が一人で行きます」
「そう、判った。前橋先生は教師歴が君より長い僕よりよほど教師らしいですね。きっとは、あなたには教師が天職だったんでしょう。頑張って下さい。挫けないで、ひたすら謝り倒すんです、事情があってのことだったんだから、きっと相手も判ってくれます」
本井からこんな人間味のある科白を聞くとは思わず眼を瞠っていると、彼は照れたように笑った。
「僕も長瀬とは一度、やり合ってますからね。僕もあいつを先に殴ったことが教師としては風上にも置けない行為だったとの自覚はあるんです。あのときは互いにやり合ったってことで、僕の方から謝罪というまでには至りませんでしたが」
本井は一年前の事件について自分に落ち度があると反省しているらしい。心優はそれを知り、少しだけ心が明るくなったように思えた。
誰でも失敗はする。けれど、大切なのはその先ではないか。きっと長瀬も彼の母も心を尽くして謝り説得すれば、心を開いて心優の話を聞いてくれるはずだと思いたかった。
その日の授業も終わった。心優はその日は四限までしか受け持ち授業がなかったので、少し早めに学校を出た。もちろん、長瀬の自宅を訪ねるためであった。R高校の最寄り駅はR駅になる。心優はいつもこの私鉄を利用していて、R駅から二駅先のH駅まで行き来している。
H駅から自転車で十五分ほどの閑静な住宅街の一角、マンションと呼ぶにはいささか物足りなく、アパートというほど質素でもないコーポラスで暮らしていた。
長瀬が母親と暮らす自宅はR駅を更に通り過ぎて五つめのN駅前にあった。心優の住まいがある下り線とは逆の上り線方向である。
N駅で降り、駅前の商店街のパティスリーでアップルパイを買い、箱に入れてピンクのリボンをかけて貰った。その箱が入った紙袋を持ち、ゆっくりとアーケード街になっている商店街を歩く。こういう昔ながらの昭和を感じさせる商店街は今日日、本当に少なくなった。
もっとも、心優は平成生まれだから、昭和の時代というものをまったく知らない。昔の写真集とかテレビで見たことがあるくらいものだ。
勤務の帰りを立ち寄ったため、服装はいつもどおりのオフホワイトのシフォンのシンプルなブラウスと紺色のタイトスカートである。背中の半ばまであるロングへアもいつものように後ろで束ねて紺色の小さめのリボンバレッタをつけていた。
「N駅前、確か住所は駅前町一丁目の○の△、こまどり荘」
心優はアーケード街を抜けて、メモの走り書きを見ながら、更に歩いた。?こまどり荘?はすぐに見つかった。どうやらこの小さな下町全体が昭和の雰囲気を色濃く残す場所らしい。こまどり荘というネーミングもいかにもといった感じだが、実物も鉄筋二階建てのレトロというか古色蒼然とした昭和の写真でよく見かけるような代物だった。
長瀬の住まいは一階である。一つ一つ順番に見ていくと、?一○三?と書かれたドアの右側に表札が掛けてあった。表札は二つ並んでいて、それぞれ?ホア・ティン・グエン?と?長瀬大翔?と油性ペンで書き込まれていたが、もう、かなり色褪せている。
プラスチックの表札の真上にあるブザーを押すと、愕いて飛び上がるくらいの大きな音が鳴り響いた。
「はあい?」
返事はすぐに聞こえたが、かなり待たされてからドアが開いた。
「あんた、誰?」
顔を覗かせたのは濃い化粧の四十そこそこの女だった。N駅前の雑居ビルに入っているスナックに勤めていると聞いている。今はもう夕方の五時前だから、そろそろ出勤前の身支度をしているのかもしれない。
本当はこんな時間帯でない方が良いのは判っていたけれど、チャンスは一度しかない。
心優は丁寧に頭を下げた。
作品名:女教師と男子生徒、許されざる愛の果てに~シークレットガーデン 作家名:東 めぐみ