女教師と男子生徒、許されざる愛の果てに~シークレットガーデン
心優が特に親しいのは社会を担当している三十歳になったばかりの女教師である。その彼女がいつかこんな話をこっそりと教えてくれた。
―以前、本井先生と長瀬君が殴り合いになったことがあってね。
何でも、一年のときの担任が本井だったのだという。長瀬の授業時の態度が悪いのはその頃からで、ある時、本井が長瀬に向かって
―お前の素行の悪いのは母親の躾けがなっとらんからだ。
と決めつけて、それがきっかけで取っ組み合いの喧嘩になった。しかも最初に殴ったのは本井の方だという。
―お袋の悪口は言うな。
剣呑な眼で警告した長瀬を本井は鼻で嗤ったという。
―所詮は水商売の女だろうが。
そのひと言で長瀬が激怒した。
―親のコネで教師になった癖に偉そうに言うな。
本井が校長の甥であるというのは誰もが知っている。本当に縁故就職なのかどうかは判らないが、そんな噂があるのは事実だ。
売り言葉に買い言葉で、あまつさえ教師という立場にありながら、生徒の保護者について罵倒するような感情的かつ不用意な発言は明らかに本井の方に非があった。しかし、長瀬の一撃で本井は一週間は学校を休まねばならないほどの大怪我をすることになってしまった。
本来なら警察沙汰になることだが、長瀬の父が多額の寄付をして事を内密に収めたため、事は公にならなかった。校長にすれば甥は可愛いが、学校一番の支援者を怒らせるわけにはいかなかったのだ。そのときから、本井と長瀬は犬猿の仲なのだそうだ。
「ごめん、不用意な発言だったわ」
素直に謝ると、長瀬は無邪気に笑った。こんな笑顔を見ると、普段は大人びて見えても、十七歳という歳相応だ。到底、その毎日に鬱屈したものを抱えているとは思えない。
「あのね、長瀬君。私はこれでも教師よ。未成年者の喫煙を黙って見過ごすわけにはいかないのよ」
「煩ェな」
長瀬は含み笑い、吸いかけの煙草を下のコンクリに押しつけた。そのままズボンのポケットから取り出した携帯の灰皿に入れるのを見て、心優は眼を丸くする。
「凄い、マナーを守る子なのね」
長瀬は苦笑した。
「俺だったら、ゴミはポイ捨てが似合うって? 何だよ、それ」
彼はおどけたように言い、続けた。
「子どものときから、お袋に他人に迷惑をかけるような行為だけは絶対にするなって言われたからな」
「素敵なお母さんね。判っていても、なかなか言えないことよ」
と、彼が信じられないものでも見たように心優を見た。
「教師にそんなことを言われたのは初めてだよ。先生って名前どおりの人なんだかな」
「え?」
何を言われているか咄嗟に判らず眼を見開いた心優を彼は眩しげに見つめた。
「先生の名前、心が優しいって書くんだろ」
ああ、と、心優は頷いた。
「読みにくい字でしょ。親が何か凝っちゃって難しい読み方にしてくれたせいで、なかなか読める人がいないのよ」
「良い名前だと俺は思うけど」
「ありがとう」
また長瀬が眼を細めて心優を見つめ、それからポツリと呟いた。
「お袋のことを悪く言うヤツばかりだから。俺、それが悔しくてさ」
「言いたい人間には言わせておけば良いのよ。大切な息子であるあなただけがお母さんのことを信じて理解してあげていれば、きっとお母さんは大丈夫だと思うから」
心優は心から言った。
「そう、だな。サンキュ」
長瀬はまた笑った。心優は思いきって別の話題を振ってみた。
「ねえ、さっき教室で勉強してたんじゃない? 何をやってたの」
長瀬は虚を突かれたようにポカンとし、それから頷いた。
「『源氏物語』。今、教科書でやってるだろう。あれって、全然判んねえ。何で、あんなくだらない小説が不朽の名作だなんて言われるのか俺は理解できないけどさ。だって、あれって、ただの女好きの男が浮気しまくって、色んな女とやりまくるだけの話じゃない? 第一、自分の義理の母親とやっちまうだなんて、よくあんなのを高校の教科書に載せるんだと俺なんかは思うよ」
心優は微笑んだ。
「長瀬君はまだ子どもだから、大人の愛は判らないのよ。たとえ許されない恋だとしても、女の人を好きにならずにはいられない、そういう恋だってあるの。藤壺女御は光源氏にとっては生涯忘れられない永遠の女性なのよね。まだ子どもだった彼の前に突然現れた少しだけ年上の美しくて優しい女性、それが彼女だったから、源氏は姉のように慕う藤壺女御を次第に恋い慕うようになった、そういうことだと思うわ」
「突然現れた少しだけ年上の美しくて優しい女性、許されない恋」
何故か、長瀬は心優をじいっと見つめていた。
「あれは、そういう話なのか、先生」
「そうね。そう理解しても良いと思うわ」
と、彼はそれ以上、源氏物語の話題を避けるかのように思いも掛けないことを言った。
「先生、俺、弁護士になりたい」
「―」
黙り込んだ心優に彼はまたポツリと零した。
「笑えるだろ、こんな授業にもまともに出ない俺が弁護士だなんて」
刹那、心優は首を振った。
「そんなことない。長瀬君の一年のときの成績を見たけど、テストは全体を通して、良い成績を維持しているわ。学年で三十位以内を常にキープするのはなかなかよ。誰にでもできることじゃないでしょう。でも、大学受験は正直、それだけでは駄目ね。平素の態度とか提出物とか、普段どれくらい頑張っているかも見られるし。だから、もう少し授業も真面目に出て、宿題もきちんと出して―」
と、覆い被せるように長瀬が言った。
「先生、俺、この学校が大嫌いなんだ」
物問いだけな心優のまなざしに、長瀬は少し淋しげに笑った。
「誤解するなよ、別に本井や青田がどうこうっていう話じゃないからな。俺はそこまでちっぽけな男じゃない。この学校の雰囲気そのものが昔から大嫌いなんだ。俺が弁護士になりたいって思ったのも、お袋のことがあるから」
「その理由を訊いても良い?」
長瀬は頷いた。それは、むしろ彼自身が誰かに話を打ち明けたかったのような熱心な口調だった。
「俺のお袋が愛人だっていうのは本当の話」
「―」
どう相槌を打てば良いか判らないでいる心優に、長瀬は笑って見せる。その空笑いがかえって痛々しかった。
「青田のあのときの話は嘘じゃない。いつだかったかな、俺がまだ幼稚園児だったくらいの頃、本妻が俺たちんところに乗り込んできたんだ」
―この泥棒猫、女狐! あの人を返しなさい。
本妻には子どもがいない。だからもあったのか、嫉妬に狂った彼女は母親を殴りつけた。
―奥さま、お許し下さい。
ひたすら土下座し続ける母を本妻は容赦なく打ち続け、見かねた彼は幼いながらも本妻に叫んだ。
―母ちゃんを虐めるなっ。
ところが、逆上した本妻は今度は彼を殴った。
―お前が孝史さんの息子だというの? お前みたいな薄汚い子どもが長瀬家の跡取りになるというの!
五歳の幼児相手に手を振り上げる本妻から母は懸命に息子を抱きしめて庇った。
―奥さま、この子に罪はありません。すべて私が悪いです、殴るなら、この私を殴って下さい。
その修羅場が想像できてしまうような、壮絶な光景だ。
作品名:女教師と男子生徒、許されざる愛の果てに~シークレットガーデン 作家名:東 めぐみ