女教師と男子生徒、許されざる愛の果てに~シークレットガーデン
「それは、やはり、おめでとうと祝いを述べるべきだろう。前橋君、君は実に優秀な教師だった。君のような人材にこそ教育現場に残って貰いたいが、それが君の人生の幸せを邪魔する正当な理由にはならないからね、今までよくやってくれた、ありがとう」
もしかしたら校長は心優が誰と結婚するのかを大方は知っているのかもしれない。しかし、心優にとって最早、それは問題ではなかった。
退職は心優が決断したことだ。
―子どもが生まれるんなら、大学どころじゃないしな。ちゃんとした仕事について稼がなくちゃ。
一ヶ月前、初めて産婦人科を受診した帰り道、長瀬はいつになく真面目な顔で言った。その時、心優は決めたのだ。自分は既に大学も卒業して教師になる夢も叶えた。今度は自分が彼の夢を支えてあげようと。
彼も約束したように、通信ではあるが、ちゃんと高校は続けている。ならば、自分も約束を守り、全力で彼の夢を応援する。
それに、妊娠したからには、R高校に勤務するのは無理がある。長瀬は元々、教え子で、心優と彼の関係は校内でも問題視され、色々と取り沙汰されてきた。そのときは何でもない本当にただの教師と生徒の関係にすぎなかったけれど、現在は恋人であり、心優は彼の子を身籠もりさえしたのだ。
もう、これ以上、極秘に交際を続けるのは難しいし、これからどんどん大きくなってゆくお腹を抱えてR高校にいるのは心優にとっても辛い。
心優の妊娠によって、長瀬も入籍の意思を強くしていたし、心優自身も子どものためにはちゃんと彼と結婚するべきだと考えている。
むろん長瀬は最初は反対した。
―俺のために、心優の子どもの頃からの夢を諦めさせるわけにはいかない。
その一点張りだったが、心優はこれ以上、彼との親密な交際を学校側に隠しておくのは無理だと訴えた。そのため、最終的に彼も心優の退職を承知したのである。
高校教師の実務経験があれば、出産後に塾の講師の口を探すという手もある。まずは無事に身二つになってからだ。その間は心優も彼にならって、在宅でできるバイト―小中学生の通信教育の添削講師などをやるつもりだ。当座の生活費は貯金で何とかなるだろう。
「短い間でしたが、お世話になりました」
心優は丁重に頭を下げて校長室を出た。職員室に戻って、とりあえずは身の回りの荷物を纏めた。二十分ほど経過した頃のことだ。
「前橋先生」
声をかけられ、心優は眼を見開いた。
「退職されるそうですね」
本井が立っていた。眼がねのフレームの向こうの細い瞳からは何も窺えない。
何とも情報の早いことだ。またしても校長室のドアに貼り付いて校長とのやりとりを聞いていたのかと思いたくなるが、流石にそれはないだろう。
「はい」
心優は無難に頷いただけにとどめた。
「幸せになって下さい」
既に心優が結婚退職するということも校長経由で知っているに違いない。本井にしては至極まともなことを言うと思ったが、もちろん口には出さないだけの分別はあった。
心優は本井の眼を見つめた。
「本井先生、くどいかもしれませんが、最後にこれだけは言わせて下さい。この世の中に屑と呼んで良い人は一人もいません。特に未来のある子どもたちは何かしら悩みや問題を抱えているのは当たり前です。成長途中の子どもだからこそ、未熟なんです。その子どもたちを良識ある大人になれるように育ててゆくのが教師の使命だと私は思っています。どうかこれからも現場に残る本井先生は子どもたちを温かい眼で―我が子を慈しむ親のような心でその成長を見守って上げて下さい。これが私からの最後のお願いです」
本井の細い眼がわずかに細められた。普段から表情に乏しい本井だが、笑っているようにも見える。
「難しそうですが、前橋先生のおっしゃることは忘れないようにはするつもりです」
それが本井の精一杯の言葉だったのだろう。心優は深々と頭を下げた。
「ありがとうございます」
本井は軽く頷き、一礼して自分の席に戻っていった。心優は職員室の入り口付近に掛かった時計を見上げた。針は午前八時二十分を指している。これから職員朝礼、次いで一時間目の授業だ。今日の一時間めは担任の三組だ。そういえば、R高校に来て初めての授業が二年三組の古典だったことを今更ながらに思い出す。
あの日は自己紹介に変えたのだった。あの時、心優は夫となる長瀬大翔に出逢った。あれからもう七ヶ月、短いようでもあり長いようでもあった期間が本当に終わろうとしている。
職員朝礼がいつもどおりに終わった後、心優は教師生活最後の一日を過ごすために、最初の授業へと向かった。
一日の終わりを締めくくる終礼の時、三組の生徒たちには今日を限りに学校を去ることを告げた。やはり、七ヶ月間をともに過ごした彼らにはきちんと話して辞めるべきだと思ったからである。
「何で辞めるの?」
「こんな中途半端な時期じゃなくて、せめて来年、俺たちが三年になるまでは学校にいてよ」
「先生がいないと、淋しくなるじゃん」
意外にも生徒たちは口を揃えて引き止め、名残を惜しんでくれた。時には感情的に怒ってしまったりと、けして良い教師ではなかった自分を子どもたちがここまで慕ってくれていたのかと思うと、眼頭が熱くなり泣いてしまった。
「本来なら、こんな中途半端な時期に辞めるのは教師として、無責任すぎることも十分自覚しています。でも、どうしても続けられない事情ができてしまいました。最後まで自分勝手な先生を許して下さい」
次々と込み上げる涙を堪えながら、心優はそれでも精一杯声を張り上げて頭を下げた。
本当はもっと二年三組の子たちと一緒に過ごしたかった。彼らが全員揃って無事に三年に進級するのを見届けたかった。だが、その想いはとうとう最後まで口にできなかった。
心優の想いはこの時、確かに生徒たちに伝わっていた。
「あーあ、泣いちゃった」
「先生、泣くなよ。俺たちだって、これでも淋しいんだぜ」
この科白をくれたのは青田大悟だった。
最後の最後まで自分は教師として未熟だと心優はハンカチで溢れる涙を抑えながら思った。
その日も予定どおり終わり、心優は放課後、また国語科の控え室や職員室、ロッカーなど持ち物を纏めた。段ボールに入れ、これは後日に取りにくることにした。
もう一度三階に上がって三組の教室をゆっくりと見渡す。ガランとした放課後の教室にはただ整然と机と椅子が並んでいるだけだ。
心優は三十四人の生徒一人一人の顔を思い出しながら、ゆっくりとその机と椅子すべてに触れ撫でて回った。
自分は現場を去ることになるけれど、愛する男と生きる道を選んだこの選択に悔いはない。これからも次々と志を持った新しい教師が自分のまっとうできなかったはるかな道を進んでいってくれる。自分はまた自分なりのやり方、生き方で子どもや教育と拘わってゆけたならそれで良い。
心優は最後にもう一度だけ名残惜しげに七ヶ月間を過ごした教室を見つめ、誰もいない教室に向かって頭を下げた。
作品名:女教師と男子生徒、許されざる愛の果てに~シークレットガーデン 作家名:東 めぐみ