女教師と男子生徒、許されざる愛の果てに~シークレットガーデン
「ええ、話したわ。今のあなたの成績なら、有名私立の法学部に行くだけの実力があるってことも、内申書を良くするためにも全部の授業にきちんと出て、宿題も提出するようにあなたを説得して欲しいともお願いした」
「くそう」
長瀬は両脇に垂らした拳を握りしめた。今度こそ、殴られるのかもしれない。心優は内心、覚悟した。けれど、彼のためにはこれがいちばん良い方法だと信じていたからこそ母親に話したのだ。悔いはなかった。
だが、長瀬はすんでのところで自分の感情を抑制するのに成功したようだった。しばらくして漸く発した彼の声はゾッとするほど冷えていた。
「あんた、本当に余計なことばっかしてくれるよな。俺は大学なんか行かないつもりだ。これ以上、あんなろくでもない親父の援助を受けるつもりはない。高校を出たら、俺はどこかに就職するつもりだよ」
それで父親と縁を切るつもりなのだと彼の気持ちは察せられる。心優は心もち上擦った声で言った。
「みすみす夢を諦めるの?」
「所詮、その程度の夢だったってことさ」
心優は言葉を選びながら続けた。
「こんな言い方が良いかどうかは判らないけれど、長瀬君、少し考え方を変えてみたらどうかしら」
物問いたげな彼の視線に、心優は慎重に話す。
「お父さんを逆に利用してみたら?」
彼が眉をひそめた。
「どういうことだ?」
「あなたが幾ら断ち切りたくても、お父さんとあなたは親子で、血の絆までを断つことはできない。お父さんは息子であるあなたに対して、あなたが二十歳になるまではその成長を見守る権利と義務があるの。ならば、あなたは成人するまでは、お父さんの援助を受けなければ駄目。そして、その援助を上手に利用して大学に行って、お父さんを超えるような立派な人間になれば良い。そんな風に考えてみない?」
ある意味、詭弁かもしれなかったが、一部分は真実でもあるといえる。
長瀬はしばらく黙り込んで宙を睨んでいた。まるで、そこに父親がいるかのように。
ややあって、長瀬はどこか投げやりに言った。
「いやだね」
「長瀬君!」
心優が何か言おうとするのに、彼は叫んだ。
「それだけ喋れば、もう気が済んだだろ。とっとと帰ってくれよ。俺はもうあんたの顔なんか見たくないんだから」
その言葉のつぶては心優を打ちのめした。
「―」
心優の大きな瞳が潤んだのを彼は無表情に見つめていた。その瞳の奥にほんの一瞬だけほろ苦い感情がよぎったのを、心優は気づかなかった。
帰りの電車の中で、心優はずっと眼を閉じていた。さもなければ、人前にも拘わらず、大声を上げて泣いてしまいそうだったからだ。今、彼女の心は喪失感と無力感しかなかった。
彼の力になりたいと大口を叩きながら、結局、自分は何もできないまま、すごすごと逃げ帰るしかなかった。彼の心を覆い尽くす氷はどんなハンマーでも、永遠に割れない。心優がどれだけ声を嗄らして叫んだところで、彼の心には響かないのだ。
―俺はもう、あんたの顔を見たくもないんだから。
殊に最後の科白は堪えた。そして、その刹那、心優はある一つの真実に漸く気づいた。
―私はあの子に惹かれているの?
思わず嗤ってしまいそうになった。二十四歳の教師が十七歳の教え子に恋をした。
世間的にも道徳的にもけして許されることのない恋。しかも、自分は長瀬大翔に徹底的に嫌われてしまった。
自分でも愚かなことだと思う。大っぴらにできない恋、仮に実ったとしても、すぐにうたかたのように消えなければならい恋なのに、相手に嫌われて落ち込むだなんて。
―馬鹿な私、よりにもよって、教え子を好きになるだなんて。
教師として最低最悪のことをしてしまった。
いつしか心優は泣いていた。電車の座席に座ったまま、閉じた眼からは次々と涙が糸を引いてしたたり落ちてゆく。午後六時半、車内は通勤・通学帰りらしいサラリーマンや学生でほぼ満員だ。彼らは眼を瞑ったまま泣いている心優をちらちらと見ている。
既にかなり暗くなった初夏の空には星がまたたき始めていた。
禁域
更に一週間が経ったが、長瀬は授業に出席どころか、登校すらしない状態が依然として続いていた。あの母親のことだから息子に話はしてくれただろうが、長瀬は意思が強い子だし、それでなくても頑なになっている。母親の言うことでも、聞くという保証は何らない。
心優の中で無力感は更にひろがった。彼が休むようになって丸二週間が経った。その週の終わりの金曜日、心優は再び校長室に呼ばれた。
「その後、君のクラスの長瀬大翔のことはどうなっているのかね。相変わらず長瀬は欠席が続いているようだが」
詰問口調で言われても、心優は返すべき言葉がなかった。一週間前に長瀬の家を訪れ、母親とも親しく話したにも拘わらず、事態の進展は何一つない。
「もう一度、週末にでも長瀬君の自宅を訪ねて、様子を見てきます」
心優はそう言って校長室を辞すしかなかった。職員室に向かって悄然と歩いていると、背後から呼び止められた。
「前橋先生」
振り向かずとも、本井だと判った。心配してくれる気持ちはありがたいが、いちいちもう詮索しないで放っておいて貰いたい。が、本音を告げることもできず、心優は曖昧な笑みを返すにとどめた。
「また長瀬のところに行くんですか?」
「はい。長瀬君、ずっと不登校が続いています。担任として見過ごしにもできないし、今度のことの原因は私自身にありますから」
「本当に手の付けられないヤツだ」
本井は憤慨めいて言い、気遣わしげに続けた。
「付き添いは必要ありませんか?」
「大丈夫です。何とか学校に来るように彼を説得してみます」
それ以上、本井と話しているのも煩わしく、心優は逃げるようにその場から離れた。
その翌日は土曜日だったけれど、心優は心を決めた。もう一度、彼と話をしてみよう。もう一度だけ、言葉を尽くして心を込めて説得してみるのだ。自分に言い聞かせた。
あくまでも教師であるという態度を示すため、服装はいつものようにブラウスとスカートにしようかと思いかけ、家を出る前に着替えてジーパンとTシャツにした。長い髪は毛先だけを緩く巻いて垂らしておいた。
長瀬は学校や教師を嫌っている。これまでに良い印象がないのだろう。かえって教師らしい服装で行くよりは、普段着のありのままの姿で行く方が彼も打ち解けてくれるのではないかと思ってのことだった。
通勤するのとは反対の上り線の電車に乗り込み、N駅で降りた。流れゆく車窓越しの風景を見るともなしに眺めていると、そろそろ田植えが始まっているらしく、大半の田には苗が植えられている。
N駅までの沿線風景は殆どがひろがる田んぼとまばらに建つ家々だ。一面が鮮やかなエメラルドグリーンに染まった風景は眼に滲みるようで、いかにも初夏らしい。
ふと心優の眼についた風景があった。周囲を田んぼに囲まれた中、ポツンと草むらがあって、更にその中央に名もない季節の花がひと群れくらい、ひっそりと身を寄せるように咲いている。
作品名:女教師と男子生徒、許されざる愛の果てに~シークレットガーデン 作家名:東 めぐみ