帰れない森 神末家綺談5
「急な用事で、これから和歌山なんどす」
須丸本家の立派な門の前で、清香に出会う。挨拶もそこそこに、彼女は泊めてあったタクシーに乗り込んだ。窓を開けて、申し訳なさそうに伊吹を見つめる老女。和服姿と、きれいに結わえた髪が美しい。
「せっかくやのにお構いできずに堪忍え。あとは紫暮に任せてありますさかいに」
「こちらこそ、気を遣わせてしまって申し訳ありません。お気をつけて」
タクシーを見送ると、紫暮が屋敷へと促す。広い座敷を一部屋あてがわれ、伊吹はそこに荷物を下ろした。庭が見える。以前、瑞とこの池の鯉にえさをやったことを思い出す。
あの穏やかな時間が、夢の進行とともに崩れていくかもしれない。そんな予感に心が曇る。まだ初日だというのに、伊吹は事実を知ることを恐れている。笑顔でいると約束したのに。
瑞に会いたいと、唐突にそう思う。絡めた小指の強さを思い出す。繋がっていれば、何があっても大丈夫だと思えるのに。
「冷たいものでも」
「あ、すみません」
盆に水菓子と冷茶を載せて、紫暮が襖を開けた。
「家の者は、みんなばあさまと和歌山だ。俺とお手伝いさんしかいなくてね。何のお構いもできず申し訳ない」
「お気遣いなく。俺が押しかけているんですから」
冷たいお茶が、暑さに疲れた身体の中へ心地よく落ちていく。甘い菓子を食べながら、紫暮ととりとめのない話をした。大学はまだ長い夏休みらしいが、家庭教師としてアルバイトをしている紫暮は、それなりに忙しい様子だった。伊吹のために時間を作ってくれているのだろう。
「じゃあ行こうか」
話も尽きたところで、紫暮が立ち上がった。
「あ、ちょっと待ってて」
紫暮は玄関から取って返すと、広い台所にいるお手伝いさんらしき女性に声をかけた。
「火の用意をお願いします」
火?なんのことだろう。
作品名:帰れない森 神末家綺談5 作家名:ひなた眞白