「I」
そんな彼女をまるでピノキオのようだ、と思った。
さっきまで人形みたいだったのに、急に見えない手に生気を吹き込まれたように動き出し早口に喋り、笑っている。
多分わたしはいつものように、あいまいに返事を濁して別れたのだろう。
科学の教師はとっくに職員室に引き上げてわたしに準備室の戸締りの確認を押し付けて帰宅する準備をしていたがそれをわざわざ指摘する必要はなく、ノートを提出に来たはずの燈が手ぶらだったことを追及する理由もなかった。
たったそれだけのことだったが、燈はわたしを見おぼえたらしい。それ以来廊下ですれ違うとにこやかにわたしに手を振り親しげに挨拶をしてきた。
通学路で会えば彼女が一人ならば、学校までか最寄りの駅まで一緒に行こうと誘ってきた。
もっとも、燈はたいてい友達と一緒だったので行き帰りを共にすることはめったになかったが。
いつだったか沈黙になるのは気づまりだと正直に打ち明けてきたが、会話を強要してくることはなく燈はその分よく話した。
冬休みが終わって、燈はお土産だとミカンをくれた。彼女は外部入学生で、そして県外からの越境入学をしていとその時はじめて聞いた。
普段は両親のそばを離れ、親戚の家に住んでいるのだという。進学や就職に有利だからだと言っていた。
いつでも休みの終わりには、次の休みの時には今度こそ都合をつけて家に遊びに来てと誘ってくれたけれど、その約束が実際に計画されることはついになかった。
休みの前になると燈はいつもあわただしくなり、そしてわたしのほうから言い出すこともなかったので。
中学三年生になって燈はずいぶん背が高くなった。わたしとは頭一つ半くらい違ったほどに。
すらりと長く白い手足に切れ長の瞳とそれまで長かった黒髪をあごのラインで切りそろえて整えた姿は下級生たちに人気だった。
男子にもてるんなら自慢になるんだけど、と言いながらもまんざらではなさそうだった。
その日、夏の終わりの日差しの強い中庭に、燈はいた。
制服のえんじのタイをほどいてどこかにやってしまった燈は、白いブラウスを袖まくりし水色のタータンチェックのプリーツスカートから伸びた脚には靴もくつしたもつけてなかった。
燈が水飲み場の蛇口を上に向けてひねると勢いよく水のシャワーが中庭のグラウンドを濡らす。下級生たちがはしゃいできゃあきゃあと笑い声をあげていた。
はしゃぐ彼女たちを横目にわたしは図書館へ行った。
彼女の話をすると水のにおいがついてまわるのは初対面の時と、この時のイメージが強いせいなのかもしれない。
本を返却して新しい本を借り出して図書館を出ても、まだ彼女たちは水飲み場で遊んでいた。
家に帰るため渡り廊下を歩くわたしに気が付いた燈は素っ気ないそぶりで手を振った。
そして下級生たちと大きな声で笑いあっていた。それ自体はとくに珍しいことではない。
わたしは気に留めることもなくまた歩きはじめた。歩き始めようとした。
足元になにかが飛んできた。上靴をかすめるような距離で、ぱちんと破裂した赤い玉からは水があふれ、水風船だとすぐにわかった。
飛んできた理由はわかったけれど、わからなかった。
ただ、赤いビニールの破片を指で拾おうとした。
結局拾わなかった理由はすぐ次が飛んできたからだ。歓声とも嬌声ともつかない笑い声が後ろで爆発的に起こり、それに呼応するようにまたひとつ。
そしてもうひとつ。
振り返る間もなく次々と飛んできた水風船のそのうちひとつがわたしの肩に当たって割れた。冷たい水道水がブラウスを濡らし、肌まで染みとおり伝っていった。
今度は確実に嬉しそうな笑い声がした。
投げた人物たちをわざわざ確認するまでもない。ついさっきわたしはそのグループを目にしているからだ。
けれどわたしはその時どうしてか振り返った。
どうして。それはあれから何年もたった今でもよくわからない。
怒りとも、悲しみとも違う。と自分では思う。腹を立てる理由はわたしにはない。相手にはいくつもあるにしても。
正直、嫌がらせをされることには慣れているとは言わないまでも、これが初めてではなかった。彼女たちにではないけれど。
彼女たちとよく似た顔の人たちをこれまで何人も見た。
みんな異口同音に言う。
何を考えているのかわからない、気味が悪い、と。
特に何も考えていないのだけれど、みんなはそうではないらしい。
そして相手をわからないということは一部の人たちに激しい苛立ちを覚えさせるようだ。
わたしもまた、わからないという彼女たちを同じようにわからないと思うので同じなのだがそんなことはお構いないらしい。
そんな彼女たちは、その苛立ちを時々強い感情と行動で表現することがあった。わたしを揺り返そうとするように。
だけどわたしにはわからない。
わからないので何を尋ねていいのかもわからない。
だからこういう場面では、何も言わず立ち去ることにしている。
なのに、振り返った。
たぶん燈がいたからだと思う。
とにかく、この時もそんな繰り返される出来事のひとつだったのだろう。その中に燈もいたということが、不思議でそして納得もできるような気がした。
水飲み場に立つ燈はわたしをじっと見つめていた。
けれど彼女の内部になにがどう巣食っていたのか、その時もいまも考えてはみるけれどよくわからない。
目に浮かんだ表情は怒りに似ていた気がするが、けれどいつもどおりのにこやかな笑みを浮かべていた。ひとなつこそうな、すぐにもその唇で一緒に帰ろうと言いそうな。
しかし燈は無言だった。わたしも黙っていた。
彼女へ問いかける言葉はなく、向けるべき表情が見つからず、彼女への感情は整理がつかなかった。だからわたしは、ただ見ていた。彼女もわたしを見ていた。ほんの少しの時間のことだ。
下級生たちは対峙するわたしたちに関係なく、わっとはやし立てるように口々に何かを言ったがどれも覚えていない。その前にぶつけられた水風船ほどには、どの言葉もわたしの元へ飛んでこなかったからだ。
わたしは結局赤いゴムの破片もそのままに、渡り廊下を離れた。彼女たちが水風船の破片をを片付けたのかどうかは知らない。
それきり燈はわたしに何かをしてくることはなかった。
嫌がらせももちろん、校内でも通学路でも、わたしに声をかけることも合図の手を振ることもなくなった。
燈はいつでも楽しそうににぎやかにそこに在り、わたしも相変わらず同じ場所にいた。それでも彼女はすでに他人以上に他人だった。
水風船がはじけたように、わたしたちをつないだ縁はあの夏の日に壊れてしまったのだろう。投げたのは彼女で、そして受け止められなかったのはわたしだ。
ふっつりとそれきり交流は途絶えたまま、三年生が終わった。
中学高校とエスカレーター式の学校だったけれど、それでも一応卒業式というものは存在する。多くはないが、さらに上に進学したいと外部の学校を受験する生徒もいるせいだと思う。