「I」
わたしの話を、と千寿は言った。
けれどわたし自身についてわたしが語るような出来事なんて特にない。
通った学校、そのグラウンドの風景、そんなものでよいと千寿は言ったけれどそれではあまりにも砂漠の砂粒を拾うようなものだ。
だからわたしは考えた末に、わたしはわたしの友人たちについて語ることにする。
千寿は少し目を瞠って、そして「いいね」と笑った。
自分の身近な人について語ることも自分について語ることと同義だと言った。
わたしの友人たち、と複数形で言ったもののあえて口にするまでもないけれどそんなに多いはずもない。
あっちゃんと燈。
たった二人の、けれどわたしの大事な友人。
それなのにこうして改めて千寿に話をするまで、わたしはなぜか彼らのことを思い出さなかった。
離れて以来、彼らに会うことはなく消息を聞くこともなく、そしてだからこそ大事な友人でいるのかもしれない。
あっちゃんのことはすでにフルネームすら覚えていない。どうやって出会ったのかも記憶にない。わたしが幼稚園に入るよりも前のことだ。
近所に住んでいた二歳年上の彼はわたしの兄と同い年だったので、おそらくその流れで一緒に遊ぶようになったのだろう。痩せて色が白くひょろりとしたおとなしい少年だった。
彼の家はうちから小さな柳の道をまっすぐに行き、山茶花の垣根の家を曲がると見える楡の木の庭の古い平屋だ。今はその場所に家はもうない。
あっちゃんのその家には両親にあたる人は住んでおらず、やはりおとなしく大きな声を出すこともなくひっそりと暮らす祖父母がいただけだった。
わたしは日課のようにあっちゃんの家を訪ね、彼の家で遊んだ。何を話したのかはこれもまた記憶にない。会話自体が少なかったのかもしれない。
新聞に折り込まれた広告の裏に、ちびたクレヨンで絵を描くかあっちゃんが読みっぱなしで投げている本の続きを一緒に読むことが多かった。
ごくたまに夕方近い時間になると、まだ明るいうちにおばあさんがわたしたちを手招きする。近所の商店へ夕飯のお使いに出されるのだ。
大きな買い物はおばあさんがすませているのだろう。 買ってくるものは小さなもの。お豆腐とか、卵とか。
時々ピーマンやにんじんを頼まれるとあっちゃんは嫌な顔をする。けれど嫌だとは言わずに、わたしの手を引いてお使いへ行き、帰りに柳の小道で別れてそれぞれの家へ戻るのだ。
わたしが幼稚園に入るのと入れ替わりにあっちゃんは小学校へあがった。ほんの少し、遊びに行く日が間遠になった。
それでも時々柳の小道であっちゃんに出会えば、誘われるように一緒に遊んだ。
楡の木の家は、いつでも静かで時間が止まったかのように穏やかだった。
そしてわたしは兄の通っている小学校に入って、あっちゃんとは別の学校になったのでさらに遊びに行く日が少なくなっても楡の木の家は変わらずそこにあった。
遊びに行けば、優しく迎えてくれる。
それからどのくらい後だろう。母からおばあさんが時々寝込んでいるという話を聞いた。
たまに遊びに出かけたときに様子を窺ったが、楡の木の影がほんの少し濃くなった。それくらいしかわからなかった。
そのころのあっちゃんは絵を描くことが減った。かわりに一生懸命リコーダーの練習をしていた。
学校帰りに楡の木の下で見かけるあっちゃんは、なかなか上達しないリコーダーを飽きもせず熱心に練習をしていることが多かった。
今ならその曲名もわかるけれど、その頃のわたしは特に何も考えもせず思いやりもせずたどたどしいそのリコーダーを聞いていた。
あっちゃんのおばあさんが亡くなったのは、わたしが二年生の夏の終わりだ。
夏休みが終わって、学校が始まって、またそんなにたってなかった。山茶花の垣根の家のソテツが枯れていたことを何故か覚えている。
葬儀の日、楡の木の庭からのぞくとあっちゃんは黒い服を着て、同じように真っ黒い服を着た見たことのないおじさんのそばに引っ付いていた。
知らないおじさんの横で、あっちゃんはずっといつも以上にぼんやりとして座っていた。
それから何日かした夕暮れのことだったと思う。母の所用で近所のお店にお使いに出された。柳の小道を通って、けれどその日はなぜか遠回りをした。
楡の木の下に、あっちゃんがうなだれるように立っていた。
その夏よく見かけた薄い水色のパーカーの背中しか見えなかったけれど、泣いているのだとわかった。
だから、急いでその場を離れた。たぶん、気づかれなかったと思う。
その翌日学校の帰りに、柳の小道であっちゃんに会った。学校が近いあっちゃんはもう家に一度帰った後のようだった。
誘われて、わたしはそのまま一緒に遊びに出かけた。遊びに行ったというよりただ、あっちゃんについて行った。
柳の小道からしばらく歩いたとはいえそう遠くないはずの赤い屋根の洋館は、その日初めて目にして、そして不思議なことにそれ以来通りかかったこともなく今ではどこにあるのかもよくわからない。
赤い屋根の洋館の東向きの出窓には白いレースのカーテンが引かれ、うさぎとかえるのぬいぐるみが並べられていた。ぬいぐるみたちはその部屋の主が弾くピアノをおとなしく聞いていた。
あっちゃんはカバンからリコーダーを取り出して、そのピアノに合わせるように吹き始めた。あれほど飽きずにたんねんに練習を重ねていたのに、あんまり上達しておらず流れるようなピアノに比べるとひどくたどたどしかったが、あっちゃんは真剣だった。
わたしはうさぎとかえると一緒に、その不揃いなアメイジング・グレイスの二重奏をぼんやりと聞いていた。
その日が、あっちゃんに会った最後だった。
いつの間にか、楡の木の家からは再び住人が消えおじいさん一人になった。
おじいさんはしばらく一人でその家で生活をしていたようだったが、年が明けた寒さがいっそう厳しくなったころ全く見かけなくなった。
そして春には楡の木の家そのものがなくなり、更地になった後、今は駐車場になっている。
さようなら、も言わなかった。
転校していった小学生は、消息もわからない。
燈に会ったのは中学に入ってからのことだ。
小学校から中学へはそのまま付属の女子中学へ持ち上がったが、男子が減る分新入生も多い。燈も外部からの入学だった。
同じクラスになったことは一度もない。
クラス替えのたびに来年こそは、と言い続けた燈の言葉はかなうことがなかった。
いつもにぎやかで明るかった彼女は、太陽のようなというよりは色とりどりにピカピカのイルミネーションと形容するのが似合っていたと思う。
彼女に出会ったのは、梅雨の終わりの午後だ。
まるでスコールのような土砂降りに、夏が近づいているのだと体で感じる肌寒い放課後だだった。
電気もつけない暗がりの理科室の窓際に一人で座っていた女の子。
わたしに気が付くと燈は窓際の棚から飛び降りるとすぐに教室の電気をつけ、目をしばしばさせながら科学の先生にノートを提出に来たがいないから待っているのだと理科準備室を指して笑った。