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「I」

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 千寿が何を知りたいのかよくわからないが、今朝は大学へ来る前にコンビニで飲み物を買った。
「うんうん、そうだよね。そうなんだよねえええ」
 同意したのかと思ったら突然千寿はその場に頭を抱えてしゃがみこんだ。
「あー、意外なサプライズを期待したんだけどしょせん期待しちゃった時点でサプライズじゃないってことだよね」
 なんだかわからないまま、千寿は一人納得してようやく立ち上がった。しゃがんだ時地面に触れたえんじ色のダッフルコートとジーンズの埃を払ってから、きっとわたしに向き直った。

「綾瀬さん、今日授業何コマ? お昼は? 昼ご飯食べるでしょ? ちょっと一緒に売店いかない? 教室に迎えに行くからさ」
 千寿に半ば強引に約束をとりつけられた。何を彼が企んでいるのかは知らないが、いつもの通り断る理由もなく、そしていつもの通り二教科分の授業へ出た。
 
 午前最後の授業が終わると、廊下にはすでに千寿がコートのポケットに両手を突っ込んでわたしを待っていた。
 わたしが出てくるのを見つけると、何故か小さな子供のように嬉しそうに笑う。
 いつか、どこかでわたしはこの風景を見た気がする。この大学にわたしと待ち合わせをするような人物はいないので、多分きっとここではない違う場所でのできごとなのだろう。
 わたしにだって友人がいたのだった。

「綾瀬さん」
 千寿は馴れた犬のように寄って来た。
「さあ、行こうか!」 
 張り切っている理由も語らないまま、千寿はわたしを先導するように歩き出した。正直わたしは特に買うものはない。
 お昼用に来がけに飲み物を買い、家でサンドイッチを作ってきたのだ。
 けれど着いていきたくないと拒否するほどのことでもないのでわたしは千寿と連れ立って売店へ行く。

「綾瀬さん、お昼は? ああ、家で作ってるんだ。自分で作るの? 毎日? すごいね」 
 すごいと言われるような大したものは用意してないので面はゆいが、わたしはあいまいにうなずいた。
「俺? うん、まあ、そうだねー。なんにしよっかなあ」
 千寿はそわそわと棚を見ては、わたしをちらちらと見る。
 普段あまり購買の中へ足を踏み入れることはしないが、いろんな商品が取り揃えられていた。
 お菓子やお弁当やデザートのような食べ物から飲み物はもちろん、授業に使う筆記用具類、書籍、CD、旅行のパンフレット、ぬいぐるみやキーホルダーなどの雑貨。

「なになに? ああ、これねえ。俺この間帰省するとき買ったよ。なかなか美味しかった」
 なんとなしに郷土土産のような饅頭の詰め合わせを眺めていたら横から千寿が箱を取り、そう言った。
「土産なのにお前が食うなよとか思った? うちの姉ちゃんにそう言われたんだよね。でも食べてみたいじゃんね」
 ね? と千寿は下からわたしをのぞきこむようにする。

「んー。綾瀬さん旅行とか行ったりしない? お土産とか買わない?」
 お土産を買うような旅行には、修学旅行くらいしか心当たりがない。
 父も母も今住んでいる家からそう遠くないところで生まれ育っているので、祖父母の家にあらためて帰省のようなこともなかった。

「ふうん、そっか。ふううん」
 いつもの千寿に似合わずやけに歯切れ悪く、彼は棚に並んだリボン掛けのカラフルな小箱や綺麗なシールに飾られた紙袋を手に取ったり戻したりを繰り返す。

「じゃあさ、お土産はいいとしてさあ。ほかになんていうか、誕生日とかクリスマス以外の季節の贈り物というかね」
 何を言いたいのかよくわからずわたしは千寿の横顔を見上げた。わたしの察しが悪いので、彼は苛立っているのだろうか。

「じゃなくて。んーとね」
 千寿は、はあ、と大きく息を吐いた。
「無意味に緊張するなあ」
 そして千寿は今日はじめてにっこりと笑う。
「さっきも聞いたけど今日って何日か知ってる? あ、じゃなくて。日付じゃなくて。えーっとねなんの日か知ってる? いわゆるバレンタインって感じなんだけど!」
 今度は内容はともかく妙にはきはきした口調で千寿はずらずらと喋りはじめた。
「基本、基本ね、好きな男の子に愛を告白する日ってなってるけどさ。現代日本それだけじゃないじゃない? なんていうの? 身近なお父さんとか、お世話になってる先生とか、仲のいい男子とかにも義理チョコっていうかこうご挨拶的な感じに渡したりなんかするじゃん? 綾瀬さんはそういうのしないの?」
 問い尋ねられて改めて考えてみれば、バレンタインにチョコレートをこれまで買ったことがない。
 バレンタインとチョコレートという文字面と言葉の響きは好ましいと思う。けれどそれを身近なイベントとして思ったことがなかった。
「じゃあさ、初参加してみない⁉」

 ――――結局わたしは千寿の勢いに乗せられたのか、生まれて初めてその日チョコレートを二つ買った。一つは帰宅してから父に渡した。
 父は不思議そうにわたしとチョコレートの包みを見比べた後、喜んでいいのかよくわからないと言った。
「お前、なにか悪いもの食べたんじゃないよな?」
 と、念を押してから受け取った。
 あまり甘いものが好きではないことを知っていたので小さな粒が四つ入っているだけのトリュフにしたのだが、父は数日かけてゆっくりと食べきった。



「まだまだ寒いのにさ、あと十日もすれば桜が開花する予報が出てるんだよ。桜って働き者だねえ」
 千寿はそんなことを言いながらやってきて、わたしにセロファンに包まれた一輪の赤いバラと、棒の先端についたキャンディーを赤いリボンでくくったものをくれた。
「ほら、バレンタインのお返しだよ。もうお父さんにももらった? え、もらってないの? お父さんダメだなあ。帰ったら催促しないと」
 赤いバラはビロードのように濃い色と厚みのある花びらをもっていた。

「そう、いい花でしょ? うちの先輩が花屋でバイトしてるから、安くしてもらったの」 
 そう言った後千寿はにやりと笑った。
「ふふふ、綾瀬さんの初チョコも貰ったけど、初お返しも俺がゲットした感じ? なんかしてやったりって感じ!」
 何故だか誰にだか自慢げに千寿はそう胸を張った。
「桜、早く咲かないかなあ。好きなんだよね、俺」
 けれど結局千寿はこの春に桜を見ることはできなかった。

 数日後、大学は春休みに入り千寿は友人たちとイングランドへ出かけていったからだ。
 ロンドン、コッツウォルズ、ソールズベリー、カンタベリー、ドーハー。彼はあちこちを巡っては写真を撮り、まめにわたしのPCメールに近況と一緒に送って来た。
 旅行へ出る前にフリーメールのアドレスを取得しろとせっつかれたので図書館で適当なアドレスを取得していたのだった。
 送受信の確認は、家から兄のPCでできる。
 PCを貸してくれと頼んだら、兄は少しばかり怪訝そうな顔をしたが何も言わず使わせてくれている。
 
 以前千寿はわたしを深い森の中の湖にたとえた。そして自分を小石だと。今なら、それは違うのではないかと言えただろう。
 なんだかんだでわたしは彼に巻き込まれ流されているような気がしている。
 彼はまるで、時々やってくる嵐のようだ。
作品名:「I」 作家名:真央