花は流れて 続・神末家綺談4
冷たい床の上に、少女が立っている。机を覗き込むようにして。長い髪からは水が滴り落ちていた。たちのぼる気配は、生きている人間のそれではない。闇の中でのみ動くことの出来る、光の加護を失った存在だ。
「朋尋は来ない」
瑞が言うと少女がこちらを向く。濡れた髪の隙間から、悲しそうな目がこちらを見つめる。すべてをあきらめた目。絶望に彩られた目だ。
「きみは生きてない。生きてないものが生きているものに干渉することは許されない」
弟の姿を朋尋に重ね、寂しさをまぎらわせるために机上での逢瀬を重ねた。ついには彼を自分のそばに呼び寄せようとしている彼女に瑞は、同情はできるが絶対に賛同することはできない。
「寂しい?苦しい?それはおまえが、いつまで自分を責め続けているからだ」
ずん、と床が揺れたような気がする。彼女の怒りが、空気を通して伝わってくる。
「どれだけおまえが求めようとも、絶対に戻らないものがある。手に入らないものがある」
空気が冷たい。彼女から発せられる明確な拒絶。皮膚がびりびりするが、この程度で臆する瑞ではない。実際格が違う。後悔と自責の念でこの世に留まっている魂と、神末の血と契約を交わしている護法神たる自分とでは。
「おまえ程度の霊魂を消滅させることは容易いが、それはしてはならぬと命じられている」
伊吹は先ほど、駅で別れる前にこう言った。
彼女を朋尋のもとへ行かせてはならない。凍りついた心を溶かし、寂しさや悲しさを癒したうえで行くべき場所へと導け、と。
難しい注文だが、命じられたらやるしかない。甘っちょろい伊吹が言いそうなことだ。だが、嫌いじゃない。あいつのそういう優しいところ。
彼女の拒絶が、徐々に静まっていくのがわかる。変わって押し寄せてきたのは、深い悲しみと後悔だった。細い細い泣き声が、小雨のように伊吹に降り注ぐ。
「おまえは悲しみから逃れるために死を選んだのだろう?なのに、死を選んだ今も苦しんでいる。悲しんでいる。」
いつまでも苦しむなんて。悲しむなんて。
彼女の魂の弱さではなく、そんな残酷さを、瑞は憎む。
「そんなふうに苦しまなくていいんだ。おまえの魂は十分悲しみ、十分傷ついた。もう癒されていいんだ。癒されなければいけないんだ。それを俺は伝えに来た。つらいことも、苦しいことも、全部消えて風になる。全部流れて水に帰っていく」
かつての自分もそうだった。瑞は、憎しみと悲しみだけに支配された存在だった。死してなお、魂は荒ぶり、すべてを憎んで飲み込もうとしていた。
――穂積に。穂積という光に出会うまでは。
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作品名:花は流れて 続・神末家綺談4 作家名:ひなた眞白