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後宮艶夜*ロマンス~皇帝と貴妃~【前編】

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 刹那、法明が小さく息を呑む気配がした。
「逃げるって、そりゃまた穏やかじゃないな」
 芳華はうつむいたままなので、法明の表情の変化は見えない。
「あまり詳しくは話せないんだけど、親に無理に嫁がされてしまって、嫁ぎ先から逃げてきたのよ」
 ただし、その婚家というのは宮殿なのだが、話の大方は嘘ではない。
 しばらく声はなかった。芳華はおずおずと顔を上げた。法明の瞳がまた淡い紫に光っていた。その何もかも包み込むような紫水晶の瞳を見ていると、不思議に騒いでいた心が嘘のように凪いでくる。この男であれば、話しても大丈夫なような気がした。
「つまり、結婚相手が気に入らなかった?」
 唐突に訊ねられ、芳華は小さく頷いた。
「そういうことになるわね」
「逃げられた男も気の毒だな。新婚早々に新妻に棄てられるとは」
 何故か皮肉げな物言いは彼らしくなく、芳華は首を傾げた。
「男の人って、そういうのはやっぱり許せないものなのかしら」
 法明はしばらく考えてから、静かな声音で言った。
「許す許さないの問題じゃないだろ。だって考えてもみろよ。お前の亭主になる男のことをお前はちゃんと知ってるのか?」
「―ううん」
 声が小さくなる。後宮を逃げ出したのは、皇帝陛下と初の対面となるはずだったその夜だった。
 法明は軽い溜息をついた。
「ろくに知りもしないのに、新婚早々の女房にのっけから嫌われて逃げ出したりされてみろよ。怒るっていうよりも前に、何でかって落ち込むっていうか、理不尽な話だと納得いかないんじゃないのか、普通は」
 なるほどと、芳華は頷いた。
「確かにそうよね。向こうが理不尽だと思っても仕方ないわね」
 法明が笑った。
「お前って、本当に面白い女だよな。やけに負けん気が強くて威勢が良いかと思ったら、妙に素直になるし」
 芳華が頬を膨らませた。
「何だか褒められてるのか、けなされてるのか判らないですけど」
 法明が手を伸ばし、また、くしゃっと芳華の髪を撫でた。
「そうか? 俺としては褒めてるつもりなんだがな」
 そのときだった。芳華が小さな声を上げた。
「大変」
「ん? 何だ」
 余計なお喋りをしている場合ではなかった。法明の綺麗な顔、左頬にかすり傷程度の怪我があるのに気づいたのだ。芳華を庇って道を転がった際にできてしまったのだろう。
「ごめんなさい、私ったら、少しも気づかなくて」
「あ、これか。こんなのはかすり傷だし、舐めときゃ治るさ」
「そういうわけにはいかないわ。化膿することだってあるから、甘く見ないで」
 今度は芳華が法明の傷の手当てをする番だった。水に浸した清潔な手ぬぐいで丁寧に傷口を拭き、上から軟膏をつけた。
「これで良いかしらね」
 芳華はそこでハッとした。一部屋しかない小さくて粗末な家は借りたものだが、通りに面した小窓から見えるのはすっかり菫色に染まった宵の空だった。
「大変、もう陽が暮れたみたい。法明、あなたはそろそろ家に帰らなきゃならないんじゃない?」
 と、法明が少しの逡巡を見せ、思い切ったようにひと息に言った。
「なあ、俺を今夜は用心棒代わりにここに置いてくれないか?」
「ええっ」
 流石にこの申し出には愕いた。若い男と女が一つ屋根の下、しかも一部屋しかない狭い家で過ごすのはどう考えても外聞が悪い話である。もちろん法明が無体なことをしたり、嫌がる娘に強要するような男ではないことは信じているが―。
「お前は明らかに生命を狙われている。しかも、宮殿でも大きな影響力を持つような大物がお前を生かしておきたくないと考えているんだ。これは想像以上に厄介なことだぞ。だから、俺がこれからはお前の側にいて、お前を守ってやりたいんだ」
 ?守ってやりたい?のひと言には法明なりの真摯さと誠実さがこもっていた。本当に良いのだろうか。芳華は自分に問いかける。今日出逢ったばかりのよく知らない男を家に泊めたりして。
 だが、法明は芳華の生命を救ってくれた。それに、悪い人ではなさそうだ。時々薄紫に色を変える澄んだ瞳を見れば判る。
―後宮を出れば、心から愛せる男に出逢えるかしら。
 ふと、宮殿を抜け出した夜、泰山木の花を見ながら考えた想いがちらりとよぎる。
 私ったら、何でこんなときにそんなことを思い出すの! 芳華は狼狽えて法明の深い瞳から眼を逸らした。
 結局、法明はそのまま芳華の住まいに居候することになった。
 その夜、芳華は出来る限りのご馳走をこしらえた。生命を救ってくれた恩人への精一杯のもてなしのつもりだった。その割には蒸し鶏と粥、もやしと青菜の炒め物とたいしたものではなかったけれど、今の芳華の暮らしではそれが最高のご馳走だった。
 法明は
「こんな美味いものは食べたことがない」
 と、それはもう見ている芳華が気持ち良いくらい旺盛な食欲を見せて平らげた。
 片付けを終えた後、二人は並んで敷いた薄い夜具に横たわり、夜更けまで様々な話をした。これまでに生きてきた互いの環境から話は多岐に及び、刻が経つのも忘れてしまうほどだった。
 婚家を出た後、どうやって暮らしていたのかを問われ、芳華は微笑んだ。
「分不相応なところに嫁がせるために、父は色々と私に教育を施したの。それが皮肉な形で役に立ったわ。読み書きや計算はひととおりできるので、この辺の子どもたちを集めて教えてるの。生徒は殆どは商家の子どもだけど、申し出があれば、それ以外の子どもも受け付けるわ」
 法明は芳華の話にいちいち頷きながら聞き入っていたが、そのときは訊き返してきた。
「つまり、ごく普通の貧しい家の子でも、教えているということか? だが、それでは、おまえに報酬が入るまい」
「報酬なんて、どうでも良いのよ。私が暮らしてゆけるだけの稼ぎがあれば十分なの。私はね、法明、今まで広い世界に憧れてたわ。外に出ていけば、どんなに素晴らしい世界が待っているかと愉しみにしてた。でも、現実に世間知らずの小娘ができることなんて、知れてるのよね。その時、漸く知ったのよ。今まで自分がどれだけ父に守られて大切にされけてきたかって。だから、そんなちっぽけな私も誰かのためにできることがあるって知っただけで嬉しいの」
「―そうか」
 しばらく法明から返事はなく、ひたすら静かな時間が流れた。
 先に静寂を破ったのは芳華の方だった。
「私も訊きたいことがあるの」
「ああ」
「法明が話してた携帯用の解毒剤のこと」
「うん、それがどうかしたのか?」
 訊ねるのは勇気が要るけれど、やはり知りたかった。
「いつも生命を狙われる環境で育ったって言ってたけど、あれは本当なのよね?」
 短い沈黙が彼の逡巡を示しているかのようだった。やがて彼の静かすぎる声音が淡い闇に響いた。
「本当だ。俺には継母がいるんだが、その継母が俺に家業を継がせたくないと思っているからな。継母の産んだ異母姉は優しい人だ。しかし、継母は異母姉とその婿を親父の後釜につかせたがっていた。だから、俺は幼い頃から何度も生命を狙われたよ。あるときは刺客が寝所に忍び込んでいたりしたが、最も多いのは、やはり毒だった。それで、あるときから解毒剤を持ち歩いたり、毒に身体を慣れさせるために少しずつ毒を飲んだりしていた」