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後宮艶夜*ロマンス~皇帝と貴妃~【前編】

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 腹立ち紛れに歩いていっていると、ふと、男がすぐ後から付いてくるのに気づいた。手早く片付けたらしく、大きな荷を背負っている。先ほど薄紫に見えた瞳はもう操国人らしい漆黒に戻っていた。
「なに? まだ何か言い足りないことでも?」
 芳華が挑戦的に言うと、男は肩を竦めた。
「何か面白い女だから、もうちょっと話がしたいと思ってさ」
「私はあなたとこれ以上、話すことはないんです。さっさとどこへなりと行って下さいね」
 にべもない科白を投げつけても、男は怯まない。何を言うでもなく、芳華の後をついてくる。
「良い加減にして、これ以上しつこく付きまとってきたら、役人を呼ぶわよ」
 ついに芳華が叫ぶと、男が何か言いかけたその時。
 ヒュンと唸りを上げて飛んできたものが芳華の鼻先を掠めた。
「危ないっ」
 咄嗟に男が芳華の華奢な身体を庇うように包み込んだ。次の瞬間、芳華は男に抱かれたまま、地面に転がった。
「大丈夫か?」
 男が勢い込んで訊ねるのに、芳華は男にまだ抱きしめられたまま、茫然としていた。
「今のはなに? 何が起こったの?」
 次の瞬間、彼女は自分がよく知らない出逢ったばかりの男の腕に抱き込まれていることに気づく。しかも、男の綺麗すぎる顔がすぐ真上―互いの呼吸すら聞こえるほどの至近距離に迫っていて、芳華は彼に上からのしかかられているような格好だ。
「―っ」
 芳華が真っ赤になるのを男は真上から感情の窺えぬ瞳で見つめている。
 男は芳華の身体をそっと離し、鋭い眼で油断なく回りを窺った。とりあえずは良いと判断したのだろう、道端に落ちたそれを拾い上げた。
 彼が手にしたのは一本の矢だった。
「―矢?」
 芳華は我が眼を疑った。何故、自分が矢で狙われなければならないのだろうか。
 あまりの衝撃に、先刻までの威勢の良さも忘れて震えた。そんな芳華を男は気遣わしげに見つめ、手にした矢をまじまじと見た。
「この独特の形は?将軍のものだな」
 ?将軍はたたき上げの武人だが、若い頃から独自が考案した独特の形の矢を使うことが知られている。何故、町中の小間物売りに過ぎないこの男がそれを知っているのか―。そのときの芳華は混乱しすぎていて、考えるゆとりもなかった。
「おい、お前。お前は?将軍に生命を狙われるようなことを何かしでかしたのか?」
 男に問われ、芳華はゆるゆると首を振る。生命を狙われることなんて、何もしてない。
 と、男が小首を傾げた。
「お前は何ものだ?」
「郁芳華」
 思わず本名を名乗ってしまったけれど、郁芳華なんて、特に珍しい名前ではない。広い都中を探せば、一人や二人くらいはいるだろう。
「郁芳華―」
 なのに、男は何故か息を呑んだ。男はしばらく思案顔だったが、頷いた。
「なるほど、お前が何で狙われたかは判った」
 男は溜息をつくと言った。
「それにしても、わざわざ誰の仕業か判るように自分しか使わない矢でお前を狙うとはな。なかなか食えない爺さんだと思っていたが、ここまで大胆不敵というか阿呆だとは思わなかった」
 男は訳の判らないことを独りごち、まだ震えている芳華を見た。
「大丈夫か、震えてるぞ」
「ありがとう、あなたが生命の恩人になっちゃったわね」
 芳華は気丈にも笑顔で言った。
「ここから先はもう一人でも何とかなるわ。本当にありがと」
 男が慌てたように言った。
「馬鹿言え、そんな状態のお前を一人にできるわけないだろうが。お前が幾ら迷惑でも家まで送ってくぞ」
 その申し出はありがたかったので、芳華は素直に男の言葉に従った。大通りを外れ更に歩くこと四半刻、都の外れに差し掛かった。
「ここが私の家なの。色々とありがとう。生命の恩人の名前くらいは聞いておかないとね」
 芳華が上目遣いに見上げると、男は何故か眩しいものでも見るかのように眼をまたたかせた。
「お、俺の名はえい、いや、文法明。法明って呼んでくれ」
「法明、ありがとう」
「おい、芳華、血が出てるぞ」
 法明は慌てて芳華の腕を取った。確かに右上腕部の上衣の一箇所が破け、薄く血が滲んでいる。
「たいしたことないから、これくらいは。自分で手当する」
「馬鹿っ、矢にもし毒が塗ってあったら、どうするんだ」
「馬鹿馬鹿言わないでよ」
 芳華のか細い抗議も無視して、法明はいきなり芳華の膝裏を掬い抱き上げた。
 突然のことに、芳華が悲鳴を上げる。
「きゃぁっ」
 法明が苦笑の色を綺麗な面に上らせる。
「そういう色っぽい声はもっと別の、例えば寝台の上であげてくれよな」
 法明は悪戯っぽい笑みを見せ、芳華を抱きかかえて家の中に踏み入った。それから、おもむろに芳華の纏う上衣の右袖を肩の部分から丸ごと引き裂いた。
 白い雪の膚が露出し、しばらく法明は芳華の腕の白さに魅入られたかのように見つめていた。
「―」
 また声にならない悲鳴を上げる芳華に、彼はハッと我に返ったようだ。今度は男っぽく頼もしく笑う。
「荒療治をするけど、少し我慢してろ」
 声をかけてから、彼女の傷に口を当てると、その傷口を吸い出した。
「法明?」
 思わず彼の名を呼んだのは不安に駆られたのと、彼の唇の熱さに堪えかねたからだった。何だろう、初めての感覚が彼の唇の触れた箇所から身体中にひろがり、まるで芳華自身の身体までもが法明の熱を移されたかのようだ。
 法明は明らかに芳華の血を吸い出している。彼が先刻の矢に毒が仕込まれているのを懸念しての処置だとは芳華にも判った。だが、これはまかり間違えば、法明の生命をも脅かす危険もあるのだ。なのに、彼は自分のことなど一切考えていないかのように、懸命に傷口から血を吸い出しては吐き捨てた。
 男の一人暮らしが長いのだろうか、彼の手当は的確だ。その後は傷口を綺麗に洗って包帯を巻いた上に、懐から取り出した小さな巾着から薬草らしきものを出し、それを器用に煎じて芳華に呑ませてくれた。
「解毒の薬だ。とりあえず呑んでおけば大丈夫。多少の毒なら、これで毒は消える」
 法明は入り口にある水瓶から、あり合わせの器で水を掬って口をすすぎながら説明する。
「まあ、この様子では毒は塗られてなかったみたいだから、さほど心配はなさそうだけどな」
「法明はいつもこんなものを持ち歩いてるの?」
 ひとしきり落ち着いてから、芳華は恐る恐る訊ねた。解毒の薬なんて、誰でもが持っているものではない。と、何を思ったか、法明は屈託ない笑みを浮かべた。
 その邪気のない笑顔に、また芳華の胸が騒がしくなる。
「俺は昔から、ずっとそういう環境で育ったんだ」
「そういう環境?」
「そう」
 彼はまた屈託ない笑みで頷き続けた。
「解毒薬がいつ必要になるか判らない環境でね」
「それって―、生命が狙われてるってこと?」
 法明は笑って、芳華の頭を撫でる。
「うん、まあ、そういうことになるな。なかなか賢い娘だ」
「子ども扱いしないで。真面目に訊いてるのよ」
「だって、子どもだろ」
「失礼ね、私はもう十六よ。これでも嫁入りだって―」
 言いかけ、芳華はしまったと口をつぐむ。だが、聡い彼は到底聞き逃してはくれなかったようである。
「嫁入りがどうしたって?」
 芳華はうなだれた。
「誰にも言わないでね。私、逃げてきたの」