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後宮艶夜*ロマンス~皇帝と貴妃~【前編】

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 上背のある身体は均整が取れてスラリとしているが、脆弱な印象はなく、美男子だが優男ではない。逆に肩から腕にかけては筋肉もついていて、多少見る眼がある者ならば、この男がただの小間物売りだと名乗れば首を傾げるかもしれなかった。
 これだけの美貌は女にもそうそうはいない。もし男がもっとひ弱な身体をしていれば、それこそ本当に女人かと見紛うかもしれないが、生憎と彼は逞しい美丈夫であった。
 そんな美しい若い男の周囲に娘たちが群がらないはずがない。美しい花に吸い寄せられる蝶のように、若い娘が彼を取り巻いて歓声を上げていた。
―あの美貌で女の好みそうな装飾品を売り歩くなんて、眼の付けどころが良いわね。
 と、芳華は内心、感心して見ていた。今、その娘たちはそれぞれ気に入った品物を手にし、一人二人と散っていった後である。若者は芳華の立つ位置から少し斜め前方に陣取っていた。
 最後の一人が漸く彼から離れた。男は十八ほどの娘に眩しいばかりの笑みを見せて手を振っている。この美貌でこれだけ愛想が良ければ、客もつくだろう。
 もしかしたら、儚げな外見とは裏腹に、女タラシの遊び人なのかもしれない。とにかく女嫌いでないことだけは確かなようで、はるか宮殿に暮らす皇帝陛下にこの男の十分の一ほどの愛想と女に対する関心があれば、後宮の女たちも嘆かずに済むのにと思わずにはいられない。
 後宮のことを思い出し、芳華は暗い想いに囚われる。皇帝が訪ねてくると聞いて、衝動的に後宮を飛び出してしまったものの、あれから、どうなったのか。
 お転婆娘の芳華にとって、見回りの兵士をやり過ごし、宮殿を取り囲む塀を乗り越えるのは造作もなかった。とはいえ、一人残してきた侍女の凜鈴には申し訳ないことをしてしまった。皇帝は特に残虐だと聞いたことはなく、むしろ身分の隔てに拘らない性格らしい。
 後宮の女たちに対しては何の思いやりも示さないが、民には慈悲深い政を行う賢君として知られているほどの人だから、よもや何の関心もない妃が一人逃げ出したからといって、侍女を罰することはないだろう。
 やっと彼を取り囲む女客がいなくなり、芳華は意を決して男に近づいた。
「あの」
 男がふと声にいざなわれるように面を上げた。そろそろ傾き始めた黄昏時の陽光が横から彼の端正な顔を照らし出している。間近で見たその顔は予想以上に綺麗で。
 芳華の心臓は一挙に煩くなった。
―なんて綺麗な男なの、それに、この瞳。
 黄金色(きんいろ)の光に浮かび上がった男の瞳は紫色に染まっていた。
 まるで紫水晶(アメジスト)みたいな美しい瞳に思わず引きこまれそうになる。
「あの―、品物を見せて欲しいんだけど」 
 何だか声が上擦ってしまった。緊張のせいなのは判っているけれど、みっともないと思われていないだろうか。どうもこの美しすぎる男に見つめられると、平常心を失ってしまうようだ。
 ああ、と、男は頷いて、ひろげた荷を示した。
「どんなのが良いの?」
 本当は紅珊瑚の簪が欲しいと思っていた。後宮に置いてきたあの簪―、父が嫁入りのためにわざわざ作らせたあの簪は芳華のお気に入りだった。だから、あの簪には到底及ばなくても、安物でも良いから紅珊瑚の簪を一つ買おうと思っていたのだ。
 だが、男の薄紫の瞳とその抑揚のある深い声に気を取られている中に、もう何が何だか判らなくなってしまい、芳華が口にしたのは、
「紫水晶の簪って、あるかしら」
 と、考えてもみなかった科白だった。いや、男の紫の瞳を眺めながら、まるで紫水晶みたいだとぼんやりと考えていたのだから、満更、無関係ではなかったのかもしれない。
「紫水晶、ね。あれは少し高価なものだから、今、俺が扱っているのはこれくらいかな」
 男は後ろを向くと、普段は背負って移動するらしい大きな木箱を覗き込んだ。
「今あるのは、これくらいだ」
 男の大きな手のひらに乗っているのは鳥の形をした紫水晶の簪だった。じいっと見入っていた芳華はギョッとした。
 思わず小声になってしまう、
「ねえ、この鳥って鳳凰じゃないの?」
 鳳凰の簪を身につけるのが許されるのは、この操国ではただ一人、皇帝の隣に座る皇后のみだ。すると、若者は不敵に笑った。
「よく見ろよ、これは鳳凰に似てるが、微妙に形が違うだろ。最近は都の女たちの間では、こういうのがひそかに流行ってるだよ」
 言われてよくよく見れば、薄紫の鳥は一見鳳凰に似てはいるが、確かに違う。芳華はホウッと大きな息を吐いた。
「ああ、心臓に悪いわねえ。でも、一歩間違えば、不敬罪で役人に捕まってしまうわよ?」
「別にたいしたことじゃないさ。誰だって、雲の上に棲む人間には憧れる。実際はそんなたいそうな人間でもないのにな。おかしなものだ。皇帝の妻である皇后がこんな簪を挿してるってだけで、都中の女が鳳凰の簪に憧れる」
「あなた、声が大きいわよ。皇帝陛下や皇后陛下のことをそんな風に言ってたら、本当にとっ捕まるんだから」
 芳華は男のために心底から忠告してやったのに、男は低い声で笑っている。まったく外見に似合わず、性格の悪い男だ。
「だから、たいしたことじゃないって。第一、今の皇帝にはまだ皇后はいないんじゃないのか。何なら、俺がお前の髪にこの簪を挿してやろうか? それだけで、お前も今日から皇后さまになれるぞ」
 皇帝が皇后を決める時、皇后しか挿せない鳳凰の簪を皇帝手ずから妻となる皇后に挿すという風習が今も残っている。もっとも、今は伝統的儀礼として、皇后冊立の儀式のときに行う形だけのものだが。
 元々は二代皇帝が貴族の娘であった妻を見初めた時、簪を贈って求婚したのが始まりとされる。
 更に現在では、皇帝だけでなく一般の貴族や庶民も男性が好きな女性に求婚するときは簪を贈るのがならわしになっていた。そして、女は婚礼を挙げた翌朝には、良人となった男にそれまで降ろしていた髪をあげて貰い、贈られた簪を挿す。それが女性の結婚したという証にもなるのだ。
 男の科白はそのような背景があった。芳華は即座にその言葉を切り捨てた。
「冗談でしょ、私はどれだけお金を積まれたって拝み倒されたって、皇后になんかなりません!」
 男が美しい瞳をわずかに眇めた。
「おかしなヤツだな、お前は。都の女たちはこぞって皇后の真似をしたがるほど憧れるのに、何故、お前は皇后になりたくない?」
 芳華はあまり自信のない薄い胸を精一杯張った。
「私は自分で選んだ男と結婚するのよ。幾ら偉くても雲の上のお方でも、顔も見たことのない皇帝陛下の奥さんになんかならないんだから」
「なるほど」
 男は頷き、また、ひとしきり笑った。   何がそんなにおかしいのだろう。芳華は憮然として言った。
「何がそんなにおかしいのよ!」
「いや、お前って本当に面白い女だよな」
「私のどこが変わってるって?」
「いや、俺は何も変わってるとは言ってない。面白い女だと―」
「もう良い! あなたみたいな失礼な人は知らないんだから」
 芳華はくるりと踵を返すと、すたすたと歩き出した。本当に麗しい外見に騙されてしまった、中身はとんでもない失礼な男だった。