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後宮艶夜*ロマンス~皇帝と貴妃~【前編】

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 とにかく、ここにいる限り、芳華は一生、籠の鳥でいなければならない。身を綺羅で飾り、ご馳走を食べて贅沢な暮らしをしても、後宮という豪奢な鳥籠で飼われている鳥と同じ。そんな窮屈でつまらない人生はご免だ。
 自分はもっと広い世界で悠々と生きたい。空を舞う鳥のように羽をひろげて自由に生きてみたいのだ。宰相の息女でもなく、皇帝の妃でもなく、ただ一人の郁芳華という人間として広い世の中を見てみたい。
 芳華は内側から鍵をしっかりと掛け、周囲を忙しなく見回す。庭に面した八角形の大きな窓には両開きの障子戸が填っている。その戸を開き、迷わず窓枠に脚をかけた。長い下裳の下には穿袴をはいているので、ためらうこともない。
 そのままひょいと身軽に窓枠に乗ったかと思うと、ストンと地面に降り立った。たいした高さではないので、衝撃を感じることもないのは助かった。
 芳華は慎重に辺りを窺うと、脚音を極力立てないように足早に歩く。その時、少し離れた前方からひそやかな話し声が聞こえてきて、芳華は咄嗟に背丈の低い植え込みに身を隠した。
「それにしても、郁貴妃さまは随分と風変わりな姫さまでいらっしゃいますこと」
「本当ですわね。女人を一切寄せ付けない皇帝陛下もかなりお変わりになっていらっしゃいますが、普通の女人であれば、婚礼以来ずっと一度もお召しもお渡りもないのをもっとお嘆きになるはずですのに」
「貴妃さまはどう見ても、お嘆きになるどころか、むしろホッとなさっているようにしか見えませんでしょう。後宮の女たちのいちばんの望みは陛下のお眼に止まることです。私たちのような宮女だって、陛下に見初めて頂けば、ゆくゆくは側室どころか、次の皇帝陛下の母君になれることだってあるのですもの」
「ですが、私たちがお仕えする郁貴妃さまには望みはありませんよ。大体、郁貴妃さまそのものに陛下はまったく興味がないのですから、下っ端の私たちが陛下のお眼に止まることなんてあり得ないわ」
「貴妃さまが陛下のご寵愛を頂かない限り、貴妃さまにお仕えする私たちも陽の目を見ることはできっこありませんものねえ」
 会話の端々から、彼女たちが他ならぬ芳華に仕える宮女であることが判った。
―勝手に言うが良いわ。私は大勢の女で一人の男の愛を競うだなんて、真っ平なのよ。
 宮女たちはまさかその貴妃本人に聞かれているとは知らず、まだ喋りながら向こうへと歩き去っていく。
 二人の声が完全に遠ざかったのを見計らい、芳華は茂みから出てきて、彼女たちとは反対の方向に歩き出した。
 ふと初夏の大気にほんわりと甘い香りが混じっているのに気づいた。見上げれば、そこには大きな樹が夜陰の中でひっそりとそびえている。十六夜のふっくらとした月が冴えた光を大樹に投げかけていた。
「綺麗」
 芳華は思わず呟いた。月明かりが細かな粒子となって、白い大輪の花の上できらきらと踊っているように見える。今は亡き先帝の最初の楊皇后がこよなく愛でたという泰山木の花だ。
 遠い海を渡ったはるかな外つ国からはるばる嫁いできた楊皇后は?栄?という小国の姫君だったという。栄は小さいけれど緑豊かな国で、常夏と呼ばれるほど一年中温暖で暮らしよい国だ。その国では泰山木は国中に見られ、国を守る神木として人々に崇められている。
 そんな経緯で楊皇后はたまたま奥庭に植わっていた泰山木を見つけて、殊の外歓んだ。政略で結ばれた妻を先帝は心から愛し、二人はとても仲睦まじかったと聞く。紫水晶のような瞳に透ける金褐色の髪を持つのは栄では珍しい風貌ではないが、黒髪に黒い瞳が多い操国では貴重だ。
 更に楊皇后は絶世の美人だった。気性も優しく可憐な姫君に先帝は夢中になった。身体の弱かった先帝は生涯で二人の妃しか持たず、楊皇后が嫁いだときは既に黄貴妃、つまり今の皇太后が後宮にいたけれど、楊皇后を迎えてからは黄貴妃に見向きもしなくなった。
 そのため、古株で既に皇女の母となっていた黄貴妃は若い楊皇后に嫉妬して様々な嫌がらせをしたとか、しないとかは今も後宮の語りぐさとなっている。
 今の皇帝が類い希な美しさを持つのも生母ゆずりもあるのだろう。操国人の父と栄国人の母との間に生まれた皇帝は見た目は操国人の風貌だが、時に陽の当たり加減によっては、その夜を閉じ込めたような漆黒の瞳はうっすらと紫を帯びて見えるらしい。
 はるばる操に嫁いできた楊皇后は今の皇帝陛下を産んだ五年後にまだ二十代の若さで亡くなった。でも、心から愛する男に操国でめぐり逢い、女として愛されて幸せな生涯であったのではないだろうか。
 今、楊皇后が愛したという花を眺め、芳華は、この国で短い生涯を閉じた楊皇后に想いを馳せた。 
 いつか私も心から愛する男(ひと)と出逢えるかしら。
 十六歳の芳華にだって、人並みに恋に憧れる気持ちはある。親の決めた皇帝に言いなりに嫁ぐのではなく、長い人生という道を共に歩く男は自分自身で選びたい、何より心から愛した男と結ばれたい。
 物心つかない前から皇帝の花嫁になると決められていた芳華にとって、それは所詮叶わぬ願いだった。でも、後宮を出れば、ただの一人の少女として、そんな見果てぬ夢も叶えられるかもしれない。
 月光を浴びて煌めく純白の花はこの世のものならぬように艶やかで美しい。芳華はひとしきり花を見つめてから、躊躇うことなく歩き出した。
 
 偶然という運命の悪戯

 芳華は小さく息を吸い込んだ。もう、そろそろ良い頃合いではないだろうか。実のところ、彼女はもう四半刻近くもの間、同じ場所に立ち続けて時機を見計らっていたのだ。
 ここは操国の都華陽の目抜き通りである。華陽は皇帝が住まう広壮な宮殿を中心にする形で碁盤の目状に道路が広がっている。どこの国でもそうであるように、皇帝の住まいに近い中心から上位の貴族の屋敷が取り囲み、外に向かっていくに連れて庶民の暮らす下町が多くなった。
 宮殿の正門から真っすぐに伸びた大路は最も賑やかな大通りとして知られている。道の両脇には様々な露店が建ち並び、揚げたての饅頭(マントウ)の食欲をそそる匂いが漂い、そうかと思えば、生きたまま売られている鶏が籠に入れられて、かしましい啼き声を上げている。
 中には若い女たちが歓びそうな装飾品を低い台に並べた小間物売りもいた。その中で露店を出すわけでもなく、ひっそりと荷を並べている若い行商人らしき男がいた。何故か、すぐ隣の比較的大きな小間物を扱う露天商よりも行商人の方に人が集まっている。
 それもそのはず、露店の方は半ば額の禿げかかった中年男が座っているのに対して、行商人はまだ二十歳を少し出たばかりの美しい若者であった。操国の人間にしてはやや色素の薄い褐色の髪を髷に結い、こざっぱりした上衣と穿袴を纏っている。
 どこから見ても、その日暮らしの民のようであったが、その美しさといえば並外れていた。切れ長の瞳は棗型で漆黒、少し愁いを帯びたように見えるのが女心をかえってかきたてるに相違ない。唇は男にしてはやや薄いが、紅を引いているわけでもないのに濡れたように艶やかで、全体的に美しいけれども淋しげな面立ちの中で、何故かそこだけはドキリとするほど艶めかしい。