後宮艶夜*ロマンス~皇帝と貴妃~【前編】
しかし、せっかくのこの美貌も宝の持ち腐れだとは同じく後宮に仕える多くの女たちの弁。何しろ、この風変わりな皇帝は十五歳で即位してから、殆ど後宮を訪れたことがない。
男盛りの歳のはずなのに、彼のために用意された多くの美しい女たちには見向きもしないし、幼いときに定められた許婚、つまり宰相の一人娘が入内はいやだと言い続けるのをあっさりと認め、妃を迎えようともしないのだ。
かといって、気に入った側妃を迎えるわけでもなく、大体、女というものに一切の興味を示さない。その癖、幼い頃から兄弟同然に育った宦官や自らが抜擢した若い臣下には身分の隔てなく親しく接する。そのせいか、
―陛下には男としての機能がおありにならないのではないか。
と、暗に二十歳の皇帝の性的不能や同棲愛好者だとの不名誉な噂が飛び交っている有様だった。
芳華自身、皇帝についてのこんな噂の様々を知っているので、婚礼に花婿が姿を見せなかったことを特に訝りはしなかった。また、芳華は芳華で、その方がよほどありがたいと思えた―というよりは、むしろ渡りに船である。
父の意向にはどうにも逆らえず、ついに入内させられてしまったけれど、これから先は好きなように生きるつもりの彼女だ。たとえ後宮に入っても、何かと理由をつけて拒み、皇帝の閨に侍るつもりなどさらさらない。しかし、この様子では、どうやらそんな心配もなさそうである。結婚式にすら出ない良人が妻を寝所に呼ぶはずもない。
芳華の目論見は的中した。華燭の礼が滞りなく終わり、初夜の床にも皇帝は現れなかった。芳華は一人、皇帝が普段後宮を訪れたときに使うという広い寝所のこれまた大きな天蓋付きの寝台でのびのびと一夜を過ごした。
それ以降は二度とお召しはなく、芳華は後宮の一角に与えられた住まいで悠々自適の日々を過ごすことになった。芳華に与えられたのは?貴妃?の位であった。いかな宰相の娘といえども、臣下の娘をいきなり皇后に据えることは難しい。最初から皇后として迎えられるのは操国、他国問わず王族から迎えた姫のみである。
有力な臣下の娘が入内する場合、大抵、最初は貴妃の位が与えられ、例えば皇子を産んだとかの功績を挙げて初めて皇后に立てられるのが通例であった。また皇帝の御子を産まなくても、寵愛が厚く皇帝が望めば、立后は実現することはある。
だが、女嫌いで衆道、つまり同じ男性しか愛せないという噂の皇帝であれば、この先、自分が皇帝の眼に止まるとも思えず、芳華は生涯?貴妃?のままで過ごすことになるだろう。このときから芳華は後宮で?郁貴妃?の称号で呼ばれることになった。
入内してひと月が経ったある夜、芳華は自室で一人、竪琴をかき鳴らしていた。幼い頃から学んだ腕前は今や、かなりのものである。
と、凜鈴が下裳(スカート)の裾を蹴立てるようにして飛び込んできた。
「お嬢さま」
後宮に来てからもずっと変わらず仕えてくれる凜鈴はたった一人の心許せる存在だ。その凜鈴の頬が紅潮している。
「なに、どうしたの?」
「たった今、知らせが参りました。皇帝陛下がこちらへお越しになるとのことです」
え、と、芳華はつま弾いていた竪琴から手を放した。
いつも冷静な凜鈴に似合わず、興奮した面持ちで告げられたのは―。その夜、珍しく皇帝は後宮に渡るとお付きの宦官に告げたそうだ。特に誰かを召すというわけでもなく、何となく脚を向けてみようかという程度のものだったらしい。
皇帝が後宮を訪れるなど一年に数えるほどもない。宦官は歓び勇んで後宮の女官に連絡し、後宮も俄に色めき立った。
―それでは郁貴妃さまをお召しになりますか?
女官長は当然、目下はただ一人の貴妃である芳華をご寝所に呼ぶと考えたのだけれど、皇帝は事もなげに首を振った。
―今時は奥庭の泰山木が見事に咲いておろう。少し花を眺めたらすぐに帰るゆえ、それには及ばぬ。
と、暗に貴妃を呼ぶことを拒絶した。これには後宮生活の長い女官長も言葉を失って絶句したそうだ。
言葉どおり、後宮に脚を踏み入れた皇帝は建物には寄りつきもせず、そのまま宦官を連れて奥庭へと赴いた。
ところが、異変はその直後に起きた。庭ををそぞろ歩いていた皇帝の許に夜風に乗って竪琴の嫋々とした音色が届いたのだ。
―あの音色は誰が引いておるのだ?
信頼第一の宦官徳堤家に訊ね、更にそれがまた女官長に伝わった。あの竪琴を奏でているのは入内したばかりの郁貴妃だと返答したところ、皇帝は大いに興味を示し早速、貴妃の許に渡ると言い出したと、こういうことだった。
「冗談じゃないわ」
芳華は大切にしている竪琴を放り出さん勢いで側に置いた。
「お嬢さま?」
凜鈴の顔から血の気が引いてゆく。ずっと芳華を見てきた凜鈴は言い出したらきかないこの芳華の性格を嫌というほど知っている。
「私は皇帝陛下にお逢いするつもりはないの」
「そんな、お嬢さま、ここまで来て陛下の御意を拒むことはできません」
凜鈴は蒼白になり、涙さえうっすらと浮かべている。
「迂闊だった」
皇帝は当代の笛の名手と呼ばれている。自身も類い希な奏者なだけでなく、音楽全般にも大きな関心を持ち、国内外の音楽はむろん、芸術を手厚く保護・奨励していることはよく知られている。そんな皇帝が訪れる夜に竪琴など弾けば、無駄な注意を引くにすぎないことは判っていただろうのに。
地味で平凡な娘の芳華を見て、後宮の美姫を見慣れている皇帝が食指を動かすとは思えないから、心配するほどのことはないだろう。それでも、結婚式にすら出ない良人が気まぐれに訪れたからといって意気揚々として迎えるほど、芳華は人が良くはない。皇帝の妃になりたくない気持ちとは別に、芳華にも女の意地がある。
普段から捨て置かれているのに、何故、急にやって来た良人に良い顔ができるだろう?
だが、今、眼前で涙を浮かべている凜鈴に本心は告げられなかった。
「凜鈴、せっかく陛下がお越しになられるのですもの、あの簪を持ってきてくれないかしら」
「と申しますと、お輿入れのときにお持ちになった珊瑚の簪でございますか?」
芳華は頷いた。
「そう、あの紅珊瑚の簪を持ってきてちょうだい」
入内の際には宰相の息女らしく贅を尽くした美々しい嫁入り支度が整えられたが、中でも文昭は娘の身を飾る衣装や宝飾類に金に糸目はつけなかった。芳華の言ったのは紅珊瑚の小さな花が幾つも集まった可憐にして豪奢な簪だ。
「承知しました。すぐに用意して参ります」
芳華は鏡を覗き込みながら、さも皇帝の訪れを待ちわびているかのように弾んだ声音で告げた。
「お願いね」
凜鈴が出ていった後、芳華は心の中で忠実無比な侍女に詫びた。
―ごめんね、凜鈴。我が儘な私を許して、でも、私はどうしても後宮で大勢いる皇帝の妃として過ごすのはいやなの。
今は変わり者皇帝の後宮には新米貴妃である芳華一人だが、いずれ、妃の数も増えるだろう。それ自体は仕方のないことだ。皇帝という立場上、たくさんの妃を持ち、次代を担う次の皇帝を儲けねばならない。
もっとも、今の同姓愛好者だといわれている皇帝にそれができればの話だが。
作品名:後宮艶夜*ロマンス~皇帝と貴妃~【前編】 作家名:東 めぐみ