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短編集『ホッとする話』

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「地区大会8強だったら、まだアカンと決まったわけではないんちゃうの?」
 二人は球場横のベンチに座り雑談を始めた。かつては同じチームで汗と涙を分かち合った仲だ。雄飛が投げて龍児が打つ。二人とも推薦枠でラブコールを受け高校でもその関係が続くと思っていたが雄飛は家からすぐの東宮高校を選んだことで仲間はライバルに変わった。でもそれはグラウンドでのことであり、近所に住む二人は今でも連絡を取り合っている。
「だけど、確率は限りなくゼロに近い」
 春の甲子園の選考基準は、秋期大会の成績と試合の内容で決まる。近畿地方の枠は今年は四つと予想されるから準決勝進出チームが当然有利である。
「でもよ雄飛、お前二試合で防御率ゼロなんやで」
「ああ、確かにそやけど……」
 東宮高校は準々決勝で龍児率いる蒙北に破れた。よって大会では二試合しかしていない。しかし与えた点数は1点のみ。それもエラーで出したランナーを龍児への押し出し四球で帰したそれだけだから自責点はないのだ。
 雄飛だって楽観的に物事を考えたい、だけどそう思う度に試合前日に見た塔のカードとそれを引いた毬奈の顔が心の奥底に引っ掛かって、意思が呪縛にかかったように封じられている。
「それじゃあ、アカンで」
 龍児は呆れたようにベンチから腰を上げて雄飛を見下ろした。
「何が?」反射的に言い返す雄飛。
「顔に、書いてある」
雄飛は上げようとした腰を動かせなかった。かつてのチームメイトも雄飛の無表情の奥を知っている。
「あの時は『やられた』と思った。だけど今は……、言わなくても分かるやろう?」
 フルカウントのあの場面、ストライクボールならバッターは振らねば三振となる。ボールと判断して見送ったのでなければ、完全に手が出なかったということは二人の間では何も言わなくてもわかった。結果とは逆に気持ちの勝負では勝っていたのだ。

   しかし今は――

「とにかく、諦めるのはまだ早い。東宮へ行ったのは、それだけとはちゃうやろう?」
 龍児は雄飛が東宮高校を選んだ本当の理由を知っている。表向きには元プロで同じ右の速球派ピッチャーであるの里中浩次郎の愛弟子として母校の甲子園初出場を託された最終兵器とまで書かれたりもしたが、それは周囲が盛り上げているだけで、本当は当時15歳だった少年が考えそうなもっと単純な理由だ。
「約束したんやろ?里中と」
 雄飛は言葉を奪われた。図星の顔だけでお互い何も言わなかった。
「だったら、それまでは腐らんとってくれ、でないと俺、お前に負けたままやん。じゃあな!」
 雄飛は去って行く親友の後ろ姿を見つめて立ち尽くした。
 龍児の望みももちろん甲子園の出場だ。もっと言えば全国制覇、その先にはプロも視野にある。しかし雄飛は龍児のもうひとつの望みを知っている。そして、彼ではどうしようもできないことも――。
 龍児もまた10代の少年である。想いが届かない、好きな人の笑顔が見たいのだ。しかしその人の笑顔は龍児にではなく、雄飛に対してのものだ。それでも彼はその笑顔が見たいというある意味矛盾する望みがあった。

「俺だって……、俺だって立ちてえよ」
 奥歯を噛む雄飛。冬とはいえ多くの人が往来する甲子園の外周、その先にはバックスクリーンの背中が見える。さらにその向こうには毬奈の家がある。雄飛にとって越えるべき壁は一つではなかった――。