短編集『ホッとする話』
〜 四回裏 〜
運命の試合前日の夜、毬奈は二階の自分の部屋で宿題をしていると、呼び鈴が鳴る音がした。この時間にやって来るのは誰であるかおよそ見当はつく。毬奈は音を殺して部屋を出て聞き耳を立てた。
「おう、雄飛か。よう来た!まぁ入りぃな」
元気よくハキハキとした声で訪問者を家に招き入れたのは里中浩次郎、毬奈の父親だ。
毬奈は急いで部屋に戻った。雄飛が訪ねた相手は毬奈ではなく父親の浩次郎であるからだ。というのも浩次郎は雄飛の師匠に当たる存在である。
浩次郎は雄飛が中学の時まで所属していたクラブチームのコーチを努めていて、雄飛にピッチングを皆伝したのは他ならぬこの人だ。現在の浩次郎は野球とは少し似つかわしくないふくよかな体型をしているが、彼にはかつて輝かしい肩書きがあった。
毬奈の父は阪神タイガースの元投手だった。といっても一軍で登板する機会は最後まで無く、30を手前に戦力外通告を受けたのだが。毬奈が生まれたのはその年の暮れなので、父が甲子園のマウンドに立つのを見たことがない。
さらに彼は雄飛と毬奈と同じ、東宮高校の卒業生でもある。今から30年前、野球部のエースとして夏の予選で準決勝まで勝ち進んだのは浩次郎の右腕があったからだ。それから大学で才能が花開き、ドラフト末順ではあったが縦じまのユニホームを着るに至っていて、現在は野球部のOB会長も努めている。
浩次郎が持ち続けている、東宮の野球部を本当に「甲子園に一番近い高校」にするという夢を託すのにもってこいの存在が雄飛であり、毬奈という娘しかいない浩次郎にとっては息子のように大事に育ててきた。雄飛が東宮に進学することに決めた理由のひとつにこれが、ある――。
「次は、蒙北学園か」
「そうです、でも対策はちゃんと考えてあります」
階下から話し声が聞こえる。
蒙北の四番、注目選手である鳴浜龍児は同じく浩次郎の教え子なので、当然チームの動向には注目している。
「龍児は成長したけど緩急が苦手なのは相変わらずやからなぁ」
「はい、僕もそれで攻めていこうと思ってます」
「俺からアドバイスせんでも大丈夫やな。焦るなよ、お前は『東宮の希望』やからの」
父の笑い声が聞こえてきた、雄飛の声が聞こえないのはいつものポーカーフェイスを保っているからであるのは毬奈の頭にすぐに浮かんできた。
* * *
「わざわざ挨拶に来てくれて、ありがとう」
「明日は2時からですので……」
声の出所が玄関の方へ移った。毬奈も音を立てずに上着を羽織り身支度を完了した時には玄関の扉が閉まる音がした。
「お父さん」
毬奈は一階におり、居間に戻った父に声を掛けた。
「どこ行くねん?」
「あ、レンタルのCD返しに行ってくる。今日までやから」
「そうか、暗いから気ぃつけや」
「うん――」
そう言って行き先を告げると父は止めることもなく毬奈はいそいそと自転車に乗って、先に家を出た雄飛の後を追った。
彼を見つけるのに時間はかからない。甲子園球場の外周バックスクリーンのところ、ジャージ姿の雄飛は来るのを知っていたかの様子で毬奈を待っていた――。
作品名:短編集『ホッとする話』 作家名:八馬八朔