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短編集『ホッとする話』

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 私は葵、五月一五日生まれで、葵祭の葵をとって父に名付けられた。
祖父が経営する商店街の真ん中にある小さな店で育ち、一般的な学校を卒業し、地元の幼稚園で保育士として就職した。23歳の時に一般的な男性と結婚し、この街を離れて10年、出張の多い夫の留守を守ることが多い。そりが合わない姑から孫の顔が見たいとプレッシャーをかけられ続け、二度の流産を乗り越えて、33歳にして今回の妊娠は初めて安定期を迎え、年度の変わった先月、産休をとる予定だったが夫と相談した末、退職することにした。
 結婚生活に文句がないといえば嘘になるが不安はない。夫にしても、今のご時世嫌な事から逃げ続けて生きることもなく、一世代前の人に言わせればそれが当然だろうが彼なりに一生懸命奮闘していると思う。子は無意識に親を理想若しくは基準とするそうであるが、私もそのようで夫のそんな真面目なところに惹かれた。留守を守ることが多いのも親から見ればそれは贅沢に聞こえるだろうか。

 今日も夫は先週から出張中で、私は実家の母の元へと帰った。店は現在弟が切り盛りしていて、時代にうまく適応させた。現役を退いて近くで隠居している祖父母は、父は店を継がなかったが孫である弟が継いだことがとても嬉しいようで、いつでも死ねると冗談を言えるほど健在だ。
 しかし――、父である。父は現役の頃の無理が祟ったのか、元々体が強い方ではなかったのか、病に冒され入退院の繰り返しだ。病院からは、父が長くない事を聞いている。何かしてあげられることがなかったのだろうかと考えては自分の無力さを恨めしく思う。そして祖父母が健在なだけにあまりにしのびない。

「ここから、観覧車が見えるんだ」
 母と一緒に父の見舞いに行くと、父が病室の窓から見える観覧車の方を見て呟いた。動物園は見えないが、観覧車だけは高いところにあるため上端から3分の1くらいが遠くに見える。
「あそこへ行けば、元気をもらえる」
そう言ったあと、希望をこめた事を言うときの父の口癖が出た。

「そんな気がしてならんのだ――」

 日に日に痩せ細って行く父、何もできない自分を恨む。とにかく何かしてあげることができないだろうか。そんな思いを読んだのか、母が言った言葉がこうだった。

「葵、動物園にでも行ってみましょうか」

 動物園の中の遊園地、そこにある観覧車。私も嫌いじゃないけど、それを愛して止まないのは病床に伏せる父なのだ。なのにその父を前にそんな事を言う母の様子を疑った。
「あら、勘違いしちゃだめですよ」
母は笑って私を諭した。本意を直接に表現しない世代の、穏やかで温厚な父が「私の変わりに動物園に行きなさい」とやんわりと命令しているのだと母は言っているのだ。それだけのやり取りで通じあう二人を見て、夫婦生活の長さと深さを感じずにはいられなかった。
 父の一言から私も同じように窓から見える観覧車が急に懐かしくなり、久し振りにあのゴンドラに乗ってみたくなった――。