短編集『ホッとする話』
ゴンドラは頂点に到達せんとする。周囲に見える街の景色、北方の山は緑々と茂り、南方の海は多くの貨物船が行き交う。この瞬間が一番好きだ。土俵入りの横綱が最初の四股のあとジリジリとせりあがるように泰然と頂きに到達する。学校や会社でも一番になれない私は、この時だけは一番になった気になれる。そして頂点を越えればあとは下がるのみ、当たり前のことなのに現実が下から手を引いて戻そうとする気がしてそれが少し寂しい気がする。
「そうですか、実の親御さんは喜ばれたでしょう?」
私はもう一度下を見たが、やっぱり葵さんの母親と思われる人は見当たらない。
「はい」元気な返事が返ってきた「初孫なんです。母は自分の事のように喜んでくれて……、ただ……」
「ただ……?」
今度は小さな葵が私の膝の上に乗った。
「だーぶーぶ?」
娘は大人の葵さんの顔を見て声を掛けた。3歳の娘が言う突拍子もない言葉に大人は照れ笑いを浮かべた。娘が言う「だいじょうぶ?」は私が仕事から疲れて帰って来た時に言う口癖だ。仕事では自分を殺し、いつもカリカリしていると妻からよく聞かされる、自分に掛けられた暗示のようなものを解くのが娘の一言だ、それで私は癒される。
葵さんの顔を見ると、確かに少し曇ったような気がした。私には感じないものを娘は感じるようだ。
「母は良いのですが父の状態がよくないのです」
「そうですか……」
私は無礼な質問をしたことをお詫びした。
「父は仕事の虫でした」
ゴンドラは頂点を越え、ゆっくりと現実世界への帰路につき始めた。
父は会社人間で、記憶では遊んでくれた記憶は乏しいと言う。小さい頃は「仕事終わったら遊ぼうね」と聞かされて父の帰りを待つのだが、起きている時間には会えずじまいの日が多く、思春期にはすれ違いも多かったようだ。そして父は40余年の勤めを果たし定年退職を迎えた。しかしそもそもが強くない体に現役の頃の無理がたたったのか最近病気がちで状態が良くないとのことだ。初孫の顔は見られるかどうか、それが心配だと葵さんは言う。
「男ですねぇ、貴女のお父さんは」
私は葵さんの父について、一理納得できるところもあった。仕事をする以上は会社のため、そしてそれは家庭のためとなる。時には自分を犠牲にして鬼にならなければいけない、そう考えている男は自分含め多い。仕事に徹する彼女の父を少しでも弁護してあげようと思い、ついそんな台詞が出た。
「仕事に生きる男は私も理解できます。でも体を壊しては、元も子もありませんよね」
「確かにそうですね」葵さんは私の言葉を否定しなかった。
「でも父は『実家を継いだ方が良かったのかな』とよくこぼしていました」
私は返す言葉がなかった。自分自身も家業を継いで欲しいという親の希望に耳を傾けず自由は少ないが収入の多い会社勤めを就職先として選んだからだ。病気一つせずに還暦を越えても今も現役で店を切り盛りしている父を思い浮かべると、それを話題に挙げることは出来る筈もなく、そしてそれは葵さんの父に言っている言葉なのに、自分にいわれているようにしか聞こえなかった。
「本当なら父と乗りたかったんです。もう一度だけでいいので……」
今日ここへ来たのも、久し振りに観覧車にでも乗ってみたらという父の提案があったそうだ。自分の変わりに行って欲しい、葵さんにはそう聞こえたようだ。
作品名:短編集『ホッとする話』 作家名:八馬八朔