短編集『ホッとする話』
ここの観覧車は不思議な事に入り口が二つある。小さなゴンドラの両方向に扉が付いていて、観覧車のホイールの両側に階段がある。私のような常連客ともなると二つある階段の前で「今日は右にする?それとも左?」とか言ったものだ。これは階段がホイールを挟んで左右に別れているが、通な話になると右から階段を登ればゴンドラは右から来るそれに乗る、左なら当然逆だ。乗る方向で観覧車が時計回りか反時計回りになるので、いつしかそれを左右で表現するようになった。
乗る方向で景色が変わるかって?そんな事はない。どっちから乗ろうがそれはただのゴンドラだ。
「迷っている時は右、
思い出したい事があったら左」
根拠は全くないが、自分の中で観覧車に乗る時の基準としている。今日は仕事に少し疲れていたので右側から乗ることにした。階段を上がり、向かって右側からゆっくりとゴンドラがやってきた。直径2メートルもない円柱状のそれは青く塗られていて、「30」と番号が充てられている。
係員に誘導されて私は葵の手を引いて小さなゴンドラに乗り込んだ。
そして私は膝の上に葵を乗せると、何故か反対側の扉が開いた。係員の姿は見えなかったが、「どうぞー」の声とともに一人の女性が乗り込んだ。年の頃なら同じくらいだろうか、髪は長く、最先端のファッションだろうか、あまり見たことのないワンピースを着てスニーカーを履いている。少しふっくらしているのは太っているのではない、妻と同じでお腹に赤ちゃんがいるみたいだ。
係員の誘導ミスだろうか?いや、何度となくこの観覧車に乗っているがこんなことは何度かあった、詳しくは思い出せないがそのいずれもが楽しかった記憶が朧気ながらにある。みんな夢をもって乗る観覧車だ、僕は相席になってもいいと思うし、むしろそれを願いさえもする。
「すみません」
女性は私に微笑みかけた。母親になろうとする女性の笑顔は私を充分に癒してくれる。初めて会うはずなのに、私は何故かその女性に惹かれた。
「いえいえ、構いませんよ」私も子のいる父親の顔を見せた。
ゴンドラの扉が閉まり、ゆっくりと動き始めると娘が興奮してゴンドラの中で跳ねてはしゃぎ出した。
「ほーら、葵。大人しくしなよ」
「はいっ!」
「えっ?」
私は暴れる娘の腰を捕まえると、元気な返事が返って来たので驚いて頭を上げた。三歳の娘が返事をするはずがない。返事をしたのは相席の女性だった。面白い事にそのタイミングがピッタリで、まるで葵が応えたみたいだったので私は思わず吹き出してしまった。
「あっ、ごめんなさいね」女性もつられて笑いだした「この子、葵ちゃんというのですか?」
「そうです」
「実は、私も『葵』なんです――」
「はぁ、それで思わず返事したのですな」
「私も何だか父に呼ばれたような気になって、つい……」
お互いに笑いあった。
「今日が、誕生日なんです。五月一五日生まれなので『葵』にしようと父が名付けてくれたのですよ」
「奇遇ですね。うちの葵も今日で三歳なんですよ」
小さな葵は大人の葵『さん』に一生懸命練習した「3」を指で表現しようとする。
「まぁ。葵ちゃん、おいで」
娘は葵さんの膝の上にちょこんと乗ると、急におとなしくなった。
「おや、これは珍しい」私はその光景を見て思わず声が漏れた。
「人見知りする子で、知らない人にはなつかないのですが」
その姿はまるで妻が娘を抱いているようにしか見えなかった。まるで違和感がない。下にいる妻が見たら何と言うだろうか?やましい事はないのだが、どこか後ろめたいが癒された不思議な気持ちがゴンドラの中に生じるのを感じた。
「そうですか、私は保育士でしたから……」
「『でした』ですか?」
葵さんは私のお腹に視線が移るのを感じたようだ。彼女は「ええ」と返事をしただけで、おおよその事は聞かなくてもわかった。
作品名:短編集『ホッとする話』 作家名:八馬八朔