短編集『ホッとする話』
前の方から何やら話し声が聞こえてくる。
「ああ、不本意だ。本当に不本意だ」
みんな生気を失った人がほとんどの中、この男の声だけが通ってくるように聞こえる。誰か聞いている様子はないのだが、それでも構わない様子で男は放言している。
「なぜ私が死ななければいけないのか。私は世界を舞台に確固たる地位と財を気付き、申し分ない家庭と人望を得ることができた。それなのに、それなのに……」
周囲の人が男の話を聞いているかと見るが、誰も無表情で聞いているようには見えない。相づちを期待しているのは様子でわかるが、そうすると話しが広がるから、相手にする人がいない。
「家族にも部下にも信頼されていたのに、健康にも人一倍留意していたのに、ああ不本意だ」
誰も相手しないから放言する声と内容が大きくなっている。
「……よほど、未練があったのでしょうね、現世に」
否が応でも入ってくる男の話に私は少しかわいそうには思えた。現世でどれだけ上手く行っても結局は同じことなのか。
「そうですねぇ。ところで、あなたは現世に未練はないのですか?」
うんうんと頷いている後ろの男が私の言葉を聞いで質問をした。
「そりゃあ、ありますよ。でも、ここで初めて聞いたので整理できてないし、ドジ踏んだ自分に未練ですよ。職業柄こんなこともありますからね」
もう一つ生前の記憶が一つの線にならない。時系列がバラバラで、人が死ぬ時は思い出が走馬灯のように現れるというが、残念ながらそんなことはない。それでも思い出そうとして浮かんだのは、実家の母のシルエットだった。いきさつはどうであれ、現世に残された人にしてみれば私は身勝手にあちら側に来てしまったと思われていると心が痛む。
「ただ、なんでこうなったのかは知りたいですね、ちゃんと謝らないと……」
私は申し訳ない気持ちが頭の大部分を占めるようになった。
作品名:短編集『ホッとする話』 作家名:八馬八朔