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短編集『ホッとする話』

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四 駅舎


「貝浜(かいのはま)、貝浜ぁ」
 二両しかない薄い橙色の列車は駅員の声に誘われて暫しの休憩をする。扉の開く音はない。この辺の地域では乗降する人だけ扉を手動で開閉させるためであるが、一時間に一度しかやってこない列車にはその作業は必要ないようだ。
「荒伏(あらふし)行き発車しまーす」
 乗降の全くない列車は何もなかったように発車すると駅は再び静かになった。

 貝浜駅は小さな漁師町の外れ、都市間を結ぶ国道沿いにポツンとあって、ホームから見える風景は一面の海だ。線路は海岸線に沿うように一本だけ敷かれているが、ホームから見えるそのどちらの先にも人が建てた物が見当たらない。線路が敷設された頃は昼下がりでも町へ行く人や帰ってくる人で少しは賑わっていたが、時代は平成に移り郡部においてはクルマ社会が鉄道社会を淘汰し、列車の本数も減り今では通勤通学で一部の町民が使われる程度だ。
 それでも駅員の大石は止まるだけで何もしない列車を迎えては送り続けた。運行ダイヤがあるので乗降がなくても各駅列車は一人しか立っていないホームに必ず停車する。
「おお、寒っ……」
 大石は列車を見送るとコートの襟を立てて身を縮こませ改札を通り、待ち合いに入ると暖炉に火を入れる。この地域では海からの北風が強く、冬は特に厳しいので外から駅に着くとほとんどの乗客がホームには出ずにこの待ち合いで列車が来るのを待つ。ここもかつては列車を待つ憩いの場であったが今は見ての通り誰もいない。暖炉はかつてこの待合室が賑わっていた昭和の頃の忘れ物であるが、ここではまだまだ現役である。
 それでも彼は部屋を暖めてもうすぐ会社や学校から帰ってくる乗客を迎えるのだ。人のいない部屋は中々暖まらない。大石は暖炉の炎に手をかざし次の列車が来る時間を確認した。
「16時58分、普通、寄房(よりふさ)行、と」
 海から吹き付ける風はホーム通り駅舎を抜けた。大石はさらに薪をくべた。

***

 梅原小夜(うめはら さよ)は荒伏から寄房行きの二両しかない普通列車に乗った。一時間に一本しかないのでこれを逃せば一時間の足止めになる。
 今までは自転車で通える距離に学校があったのに、父が定年退職して荒伏の社宅を出て貝浜に引っ越してきた。釣り好きな父には悠々自適の毎日釣り三昧のセカンドライフであるがそれは本人の都合であって娘には不便極まりない。
 でもそれはもう少しの我慢だ。小夜は春になればここを出る――予定だ。決定するか否かはこのひと月で決まる。
 貝浜に向けて動き出した寄房行きの列車、小夜は通学鞄からボロボロになった参考書を取りだし、むさぼるように読み始めた。電車のほどよい揺れと駅から駅の間でかかる時間、小夜はこの時間を利用して自分の中での小テストを毎日繰り返している。入試本番まで残された日はわずかだ、小夜は乗客も車掌もいない列車の中で一人参考書とにらめっこ、小夜にとっての通学列車はずっとこの調子だ――。
 学校では友達の就職先や進学先が次々と決まる中、小夜はまだ決まっていない。滑り止めで受けた大学も結果が出ず、もう後が無くなってしまった。最後に残った本命の大学も実力通りにいけば五分五分との判定を受けているが焦っていないかと聞かれれば嘘になるし、その心境は列車の中で如実に現れている。
「次は、貝浜、貝浜」
 列車はさびれた駅に近づいてきた。小夜は本を閉じて立ち上がる。ホームにはコートを着た年の頃から30歳前後の駅員が一人、自分だけを迎えるために立っている。いつも見かける駅員だ。どういった人かは知らないけれど、名札をつけているので彼が大石という名前であることだけは知っている。

***

「貝浜、貝浜ぁ」
 16時58分、大石は列車を迎えた。この列車では女子高生が一人だけこの駅に降りてきた。乗降があまりないので大体の乗客の顔を覚えている。名前は知らないけど大石はもちろん彼女の顔を覚えている。貝浜から電車を利用する高校生が彼女しかいないから自然に覚えた。去年の春、新学期から毎朝、このホームから荒伏方面の列車に乗り、この時間に帰ってくる、容姿は今時の高校生風であるが、髪の長い、内面からちょっと真面目そうな感じが見える子――、大石が知るのはそれぐらいだ。
「おかえりなさい」
 大石は貝浜に帰ってきた人には誰にでもおかえりなさいと言うようにしている。駅というものは本来誰でも乗り降りが出来るはずであるがここは街に挟まれた田舎町で、ほとんどの人が素通りする。だからこの路線を利用する客は大概が貝浜周辺の住民で、乗客とは自ずとほとんど顔見知りになってしまう。
 女子高生ははにかみながら会釈をして改札を通り抜け、待合室を素通りして足早に行ってしまった。大石にやましい気は全くない。ただ彼女自身が難しい年頃なので、ただの駅員に声を掛けられるのは煩わしいと気を使うことはある。それでも彼はこの駅を利用する数少ない顔見知りには誰も分け隔てなく言葉をかけ続けていた――。