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短編集『ホッとする話』

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 それから、晶子は幸仁が仕事に出ている間に運転の特訓をすることになった。加速減速に車線変更、そして車庫入れ――。ママ友の協力も得られて日々特訓、目標の達成のため晶子の運転技術は格段に向上し、ママ友の中では信頼が置けるくらいまでになり今までの見えない不安はいつしか自信へと変わりつつあった――。

 ところが、その自信も夫の前ではいつも発揮ができない。どれだけ腕を磨こうが、どれだけ自信をつけようが夫はいつもの調子が一向に変わる様子がない。相変わらず教習所の教官みたいに助手席で周囲をきょろきょろ見ているし、夫が休みの日は自分がハンドルを握ることがない。なかなか認めてもらえない、というより見返すことが出来ない現状に晶子の自信は時に揺らぎ、時には苛立ちに変わった。

 それでも努力は続けていたある日の朝、食事の準備をしていると大学生の娘である早希子が血相を変えて晶子のいるキッチンに駆け寄って来た。
「ねえねえ、お母さん!」
「何よ、いきなり。そんなに大きな声を出さなくても聞こえますよ」
顔を見れば明らかに寝坊をしたのが分かる。昨日早希子は遅く帰って来たのは夜中にコソッと玄関を開けた音で覚えている。もう自分で責任を持てる年齢なのでとやかく言わないがもっと静かに帰ってきて欲しい、とは言わなかった。
「駅まで送って欲しいの。今日は大事な教習があるんだ」
「早希子が昨日夜更かしするからいけないんでしょう」
 問いただすまでもないが、早希子は現在教習所に通う見習い運転手。仮免の一歩手前だ。今日はその教習の予約を入れていたのだろう。
「もう、そんなことはいいから、早く!お願い!」
 そのやり取りを夫は横で見ているが仏頂面で我関せずの様相。そういった自分の失敗がきっかけで父親を利用することは日ごろから許していない。娘もそれを知っているのか、目の前にゆっくり新聞を読んでいる父がいるのにまだ作業をしている自分を指名した。
「しゃあないわねぇ……」
 晶子はキッチンで作業する手を止め、出かける支度を始めた。原付しか乗れない早希子では次の電車には間に合いそうにない。

   * * *

 母と娘が乗った車は飛び出すように慌てて発信し、駅を目指した。いつものことだが周囲に走る車はまばらで、順調なスピードで車は遠くに見える線路の方向を目指して走る。
「お母さん、運転するのって、好き?」
「何を、いきなり」
 ここ最近は特訓と称して夫に内緒で毎日運転の練習しているが、思えばそれを日常の作業として捉えていただけで、それが好きだとか嫌いだとか、楽しいとかそうでないとかという観点で考えたことって一度も無かった。
「私は、好きだよ。楽しくなかったら免許なんて取ろうと思わないもん」
 自分が回答する前に早希子のほうが先に答えた。現在教習中の早希子にとっては運転が楽しいようで、免許を取れば日本のあっちこっちへ行きたいなと母に夢を語る。
「お父さんだって、運転が楽しいからバスの運転手になったんじゃないかな」早希子は前を指差して、踏切があるのを母に教えた。
「でもお父さん、そんなこと絶対に口に出さないでしょ?」
そういうと二人は声をそろえて笑い出した。二人に共通する人物像を良く知っている。
「確かに、運転手が楽しかったらみんな気が落ち着くわねえ」
 そう思うのと、電車に間に合いそうなのを確信するとで晶子の肩の力が自然と抜け、踏切の前で車はゆっくりと一時停止した。

 踏切を越えるとすぐに駅舎がある。晶子は誰もいないロータリーでブレーキを踏んで、早希子に降車を促した。
「お母さん、ありがとう」
 娘はその言葉と笑顔を残して駅舎に駆け込んで行ったかと思うと、その時ちょうどやって来た電車に飛び乗りあっと言う間に行ってしまった。この電車を逃せば早希子は教習の費用をフイにしてしまっただろう。頼まれた経緯とは関係無しに晶子は大きく息を吐くと、ホッとした笑みが口からこぼれた。
「そっかぁ……」
 晶子はハンドルを握ったまま、フロントガラスを通して見える電車を見送っていた。
「なんだ、簡単なことだったんだ――」
 日ごろ勝手気ままな娘の早希子。本人にその意図はなかっただろうが、基本的で大切なことを教えてくれた娘を見て、家を出たときのイライラはいつの間にか消えてなくなっていた。
「そうだ。お父さん待ってるんだった」
 晶子は時計を見ると我に戻り、周囲に駅舎以外に建物がない見通しの良い道路の左右を確認し、ゆっくりと合流して夫の待つ家に向けて走り出した。