紺碧を待つ 続・神末家綺談3
生きた人間ではない。虚ろな瞳が伊吹を見つめ、そしてふらりと消えてしまった。
「待って・・・!」
あの視線は、神隠しの廊下で感じたものと同じだ。たぶん、あの廊下で消えた誰かだろう。初日から感じていた気配は、これかもしれない。何か言いたい事があって、自分の前に姿を見せたような、そんな気が伊吹にはした。彼女が消えた場所へと駆け寄る。するとまた別の場所に、彼女は音もなく現れるのだった。
「・・・廊下へ、導こうっていうのか、」
彼女は伊吹の行く先行く先に、煙のように現れては消える。ヘンゼルとグレーテルの話が思い出され、伊吹は導かれる先を思い震える。大きなかんぬきのかかった扉の前で、女性はふうっと消えてしまった。
「俺に、どうしてほしいんだ」
立ち尽くす伊吹。扉の向こうに渦巻く、突き刺さるような不穏な気配。ここで消えて、おそらく死んでしまった女。彼女は、何かを伊吹に伝えたがっている。そう確信する。
どうする、何が出来る。自分に。
「・・・・・・」
一瞬の思案のあとで、伊吹はかんぬきに手をかけた。重くて、そしてふわりと温かい。まるで生きているかのようだ。恐怖よりも、義務感が勝っている。伊吹は扉を開く。漆黒の光の届かない廊下の真ん中に、さきほどのぼんやりとした人影が見えた、暗闇の中で、わずかに青白く。伊吹を待っているのだ。
踏み出した伊吹の足が踏んだのは、板張りの床ではなかった。裸足の足に、ぬかるみを踏み抜いた感触。なまぬるく、皮膚に絡み付いてくるどろりとしたもの。暗くて見えない。昼間とは違う禍々しさ。ここはもう異界のようだった。
「・・・血の匂い?」
とぷん、と踏み出した伊吹の鼻腔をついたのは、間違いなく血の匂いだった。おそらく、足に絡みつく生ぬるいものは・・・。
バアン!!
「っ・・・!」
大きな音とともに、扉が閉ざされた。漆黒の闇が辺りを包む。先ほどまで見えていた人影が消えうせて、伊吹の眼にはもう暗闇しか映らない。
とぷん、と波打つ足元の液体。滴る音と血の匂い。扉が閉まってから、明らかに空気が変わった。
作品名:紺碧を待つ 続・神末家綺談3 作家名:ひなた眞白