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想いの在り処

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 少しずつ、私の視界が滴に滲んでいく。少しの喜びと大きな後悔を伴って、今更になって私の心を揺り動かす。
 あの日自分が流した涙の意味なんて、解っていたはずだった。
 先輩と過ごした日々、先輩との想い出、私は本当はもっと先輩ときっと……。
 私の嗚咽は、誰も居ないのを良い事に、今まで気づけなかった分、気づかないふりをしていた分、日々に流されていた分、長い時間溜め込んでいたものを全て吐き出すように、堰を切って大きくなっていった。
「誰かいるの?」
 自分のせいで、部室のドアが開けられたことに全然気づかなかった。咄嗟に顔を見られないように隠した。
「す、すいません。大丈夫です、直ぐ帰ります」
 焦っていたのか、私はその声が誰であるかということに全く心が向かっていなかったのだ。その人は、私の近くまで歩いてきて言った。
「大丈夫じゃないね、私だよ」
 私はやっとその声の主に思い当たる。涙とか全部そのままに、私は驚いてその人の方を見た。
「先輩……」
 夢か幻か、このオレンジ色に包まれた空間で、たった今やっと想いを巡らせることが出来た相手が現れた。
「どうしたの?あ、もしかして好きだった先輩が卒業しちゃってもの哀しくなっちゃったとか?」
 あの日と同じマフラーの上で、あの日と同じく髪の毛をもさもささせながら、あの日とは違う手袋で手をもこもこさせながら先輩は言う。
「え、ええとあのその」
 いざ先輩本人が目の前に現れてしまうと、何を口に出したらいいものやら良く解らず、意味不明の事を繰り返してしまう。
「いいよいいよ、無理に誰とか何とか言わなくて。何だかなあ、あまり話せなかったから誰のことかとか予想もつかないから」
 苦笑いを漏らしながら、手袋で私の涙を拭いちゃう先輩、ほんの少ししか一緒の時間を過ごせなかった後輩にも優しい先輩。
 違うんです先輩、私は先輩ともっと仲良くなりたかった、一緒の時間をもっとちゃんと過ごしたかったんです。
 言葉にならない思いばかりが心に溢れて、滴となって外に出て、先輩のもこもこの手袋に吸われて消えていく。
 何で私たちは、こんな大切な瞬間でまで想いの在り処に彷徨ってしまうのでしょうか。
「ごめんね、ずっと誰にも言えなかったことなんだけど私、今日この後直ぐにこの街を離れなきゃいけないの。だから貴女の痛みが癒えるまで、ただ傍にいてあげて、慰めてあげている時間がないの」
 先輩はそんなとんでもない重大発表を一方的にしつつ、私にとっては先輩の一部になっていたマフラーを外して私にふわりと被せてくれる。
 もさもさとしていた先輩の長い髪が、マフラーを外されてふわふわとオレンジ色の中に跳ねた。
 私にマフラーをくるくると巻きつけた後、先輩は少しだけ寂しそうにして、マフラーにおでこを載せるようにして俯いた。
「もし、気が向いたら、本当に万が一その気になったらでいいんだけど。もう一度あの日に……主役の……で」
 最後の方は掠れた声で聞き取れなくなっていった。
 私が、必死に絞り出した言葉を、先輩に返そうとした瞬間。
 先輩は俯いたまま、部室を飛び出してしまった。最後に今日にふさわしい一言、
「さようなら」
 とだけ、言い残して。
 先輩の残したマフラーに顔を埋めてみた。何故か、まだ涙を拭ってもいないのに、滴に濡れた感触がしたような気がした。

 歩道橋の下を通る車の、走り去る音に揺り起こされる。
 先程まで、全天のスクリーンに映されていたと思っていた映像は、記憶の彼方に再び押し戻された。
 あの日聞き取れた言葉を繋ぐことで、今日まで希望を紡ぐことが出来た。
 この場所で逢えないなら、最後の言葉がまだ有効と言うことだ。もしかしたら、いやきっと永遠に。
 私は再びスクリーンを見上げる。一筋、光が流れた気がした。

「星ってさ、実を言うと今日の主役の一人なんだよ」
 先輩は空を指さしながら言う。
「あれ?今日の主役ってイエス様じゃ無いんですか?」
 私も釣られて見上げたまま、日本人の大半が持っているであろう、申し訳程度の今日という日に関する知識を披露する。
「そうなんだけどね、イエス様が生まれた時には、星が流れてマリア様のお腹に宿ったんだって。だから、星もマリア様も今日の主役なんだよ」
 もさもささせながら先輩が言う。
「そっか、だから先輩はマリア様にもお祈りをしたんですね」
 私はさっきの光景を思い浮かべながら言葉を返す。私の、日本人標準の申し訳程度の知識でもマリア様ぐらい解るし、イエス様のお母さんであることも知っている。
「そうそう、私実はマリア様の方が今日の主役だと思っているんだー。だって、イエス様の主役の日はもう一つあるし、お母さんが頑張らなかったら赤ちゃんは元気に生まれてこれないんだよ。今日はマリア様が一生の内で一番頑張った日なんだよ。まあ、もう一つマリア様が頑張った日があるんだけど今日その日の話はご法度だね」
 もさもさ、もこもこさせながら、先輩は楽しそうに笑った。

 私は、再び目を覚ます。一つ前の、今日と同じ日の想い出に残されたヒント。
 最後の一つに縋るように、歩道橋を駆け下りて、あの場所へと駈け出した。

 マリア様へのお祈りの後、その前に座り込む。
 お聖堂で、ミサはもう始まったみたい。今のところ、ここに座っていても怒られない。ここから離れたりしたら、何だか心折れそうだし。このままマリア様のそばにいさせてもらうことにする。
 振り返れば、後悔ばかり、何で私はもうちょっと勇気を出せなかったのか。
 ずっと同じ部活だったのに、大した想い出も作れず、最後に格好つけようとして、格好わるいところ見せちゃうし。
 どうして人間は、思うがままに生きることすらままならないのでしょうかマリア様。
 一度だけ、たまたま駅で会ってここに連れてきた。私は私と一緒にいるのを楽しいと思ってもらいたくて、変に気合入れてて空回りしてしまっていたような気がする。
 私の心の拠り所、想いの在り処なんてほとんどそこだけだ。
 後はもう、せっかくお別れ会で泣いてくれてたのに副部長だからなんて格好つけちゃって特別扱いも出来ず、卒業式の後未練がましく部室に戻ったら運良く会えたのに何か泣いちゃってて、無理に格好つけようとしてダメダメで。
「はあーーーー」
 手袋仕立てに息を吐きかけるついでに長い溜息をつく。
 何であの時に思いきって言えなかったかな私は。
 もっと仲良くなりたかった、一緒の時間をもっとちゃんと過ごしたかった。
 それと、一年の間の更に、少しずつの想い出だけしか無いけど、でもそれが私にとっては大切な宝物だよと。
 ただその事を伝えたかったのに。
 時間も場所もはっきり伝えていないし、今日と言う日と、この空間だけが頼りのささやかな約束。
 その程度のことしか出来なかった。マリア様とその後ろに舞うたくさんの光を見ながら私は思う。

 ああ、マリア様。もう一度言います、なぜ私達はただ思うがままに生きることすらままならないのでしょう。振り返れば後悔だらけの毎日、ほんの少しの大切な幸せと、それを遥かに上回る多くのほろ苦い映像ばかりが心を占めて、それでもなおその思いに縛られて生きなくてはならないのでしょう。
作品名:想いの在り処 作家名:雨泉洋悠