想いの在り処
想いの在り処
雨泉 洋悠
ああ、マリア様、叶うなら、私の想いを、ただあの場所に…。
喧騒に包まれたこの空間は、数時間後に訪れる、数瞬の奇跡のために、歓迎の準備を進めている。
その瞬間に立ち会う事を望まない私は、あえて、今この場所に来た。
この日のために飾り立てられた空間。訪れたものを導くための、風に踊る多くの灯火。
今日に限っては、はるか遠くに浮かぶ瞬きにも負けることのない、揺らめく信仰の証。
その向こう側、今宵の主役の降り立つ、祈りの空間。
私は、その空間と私を隔てる、簡素な木製の引き戸に手を掛ける。
それほど強く力を入れるまでもなく、音も無く引き戸は開かれて行く。
引き戸の動きに合わせて、光量を増す光の筋。
それを見る事で、明かりの灯されたこちらの空間と比べても、引き戸の向こう側の空間の方が、より明るい光に照らされていることが解る。
光の筋は、私の視線を跨ぎ、その全身を包み込む。
音も無く、光のみに満たされたその空間。そこに私は、足を踏み入れる。
そのまま、後ろ手にこの空間を隔絶する引き戸を閉じた。
そこにいたのは、光りに包まれた今夜の主役。静かに佇む、神の子。
私は、静かにその目前に進み出る。そして、この場所をお借りした理由と共に、その姿に想いを捧げた。
『ああ、イエス様。もし本当に、お祈りへの後付け設定が赦されるなら、あの日一度だけここに来た、あの日の私の祈りを使わせて下さい』
「先輩、私こういう所に今まで来たことがないので良く解らないんですけどどんな事お祈りすれば良いんでしょうか?」
私は隣で真面目に手を合わせている先輩に問い掛ける。我が家は典型的な日本の家族とも言える一家なため、こう言う場所には今まで全く縁がなく、今日初めてきた。
先輩は閉じていた眼をそっと開いて、こちらを向く。マフラーの上で、もさっとしているその長めの髪がもさもさ揺れる。
「そうだなあ、私はいつも世界の平和とか自分の幸せとか、今日みたいな日はそれこそ素直におめでとうございますとか……」
人差し指を立てながら少しだけ上目遣いに目の前の十字の像に向き直りながら答える。マフラーの上で、もさもさと、また髪が揺れる。
先輩の中では、世界平和と自分の幸せと誕生日おめでとうは、一緒くたになってしまうようだ。
「何かお願いごととかはないの?」
また、もさもさ揺らしながら、こちらを見る。
「今のところ、それほど切実にお願いしたいことがないんですよね」
もさもさ髪ばかり見ながら話している訳にもいかないので、視線を先輩の視線に合わせながら続ける。
「先輩の言葉を借りるならおめでとうございます、ぐらいしか言う事がないかな」
私はお手上げ、と言う感じのポーズで先輩に答える。今のところ、真面目な話、神頼みしなきゃいけないことがない。
「あはは、じゃあ何もお願いしないで取り敢えず保留にしておけば良いよ。今度お祈りに来た時にでも思いついたら今日の分もお願いすれば良いよ」
先輩は髪の毛をマフラーの上でまた、もさもさと揺らしながら笑った。
「えー、そんなマンガの後付け設定みたいな事を神様に対して何てやっちゃって良いんですかー?」
私はちょっと呆れ気味に突っ込んでみる。先輩はより一層もさもささせながら笑っていた。
「あはは、良いんだよー私の神様は結構融通が効くんだから」
先輩に、私の神様何て言われると、本当にそんな風に何でも融通が効いてしまうような気がする。
思い浮かぶのは、そんな些細な想い出。私の中で思い浮かぶ先輩は、いつもマフラーの上で髪をもさもささせながら笑っている。
私は、自分の中に湧き出た願いをその場所に残し、先ほど入ってきた引き戸を開けて、光の筋に背中を見送られながら、その空間を後にした。
門を出る前に、あの日を思い出して、私が先ほど後にした空間の横に立つ、白い像の方に向き直って、軽く会釈しておいた。
あの日も、門を出る時に、先輩だけが思い出したように駆けて行って、その像にお祈りを捧げていた。
門を出て、少し歩いた先にある、歩道橋。
あの日と同じように、私は歩道橋に足を掛けた。
歩道橋を上りきった所で、突風のように凍てついた風が駆け抜けた。
「先輩、寒いです……」
私は正直な感想を言葉に出した。本当にとても寒い。というか、一気に風が強くなった気がする。
「いやあ、寒いよねえ本当に、ここまで来ると海が目の前だから海からの風が強く吹き付けるんだねきっと」
先輩が手袋でもこもこになった手に、息を吐きかけながらそう言う。
「あーそっか、海が近いから風強いんだ」
私も素手に息を吐きかけながら呟く。
「そうそう、海が近いから海の眺めもとても綺麗なんだけど、それよりもほら」
そう言って、私の手を取りもう一方の手で、上の方を指さす。もこもこした手が辛うじて指差す形になっている。
その指にそって、頭上に眼を向けると、この街で一度も見たこともないような、星々の輝きがそこにはあった。
その日もらった手袋で、同じ形で空を指さしながら、あの日見たのと同じ空を、同じ場所で見上げる。あの日と変わらない輝きがそこにはあり、あの日と同じ、全天に描かれた神話の光がそこにはある。
星々のスクリーンに投影される、数少ない想い出の日々。
私と先輩との想い出なんて、実を言うと、そんな去年の今日にあった出来事ぐらい。
入学直後、部活動紹介で一生懸命に星の話をしていた姿、その後廊下でちょっと強引に他の一年生を勧誘している姿、入部した後初めての自己紹介の時の姿、初めての観測会で熱心に新入部員に説明してくれている姿、夏の合宿で楽しそうに星や星座について解説している姿、部活の後の帰り際の挨拶、部長と今後の活動について話している姿、お別れ会で初めて見た先輩の涙、その時私が流した涙の意味。
そんな、大切な想い出にすら至らないような、他愛もない想い出のかけら達。
僅かな甘さと、棘のように残るほろ苦さを残して、送られていった映し出される日々。
そして、最後に投影されるのは別れの日。
卒業式、先輩は今日この学校からいなくなってしまう。私は一年生だから、卒業式に出席する義務はない。希望者だけは出席可能だから、私は誰にも言わずに一人だけこっそりと出席した。
先輩の名前が呼ばれる時、私も釣られて緊張した。先輩の凛とした声と、横顔が記憶に残っている。
式の後、友達の卒業生達に囲まれている先輩の姿をちらっと見て、結局その中に入って行く事はできなかった。
そこで姿を見せることが出来るだけのものを、私は先輩と積み重ねていなかった。
過ぎていく日々の中で、十二月のあの日の出来事だけ胸の中においていて、ただ流れるままに日々を過ごすしか出来ていなかった。
それでも、私は帰り難くて、いまこうして部室の中で、先輩の席の真横の、窓際に腰掛けて、先輩の良く座っていた、席を眺めている。
夕暮れ時のオレンジ色の光が、あの日貰った想い出と、この部屋に先輩の残した想い出を照らしている。
雨泉 洋悠
ああ、マリア様、叶うなら、私の想いを、ただあの場所に…。
喧騒に包まれたこの空間は、数時間後に訪れる、数瞬の奇跡のために、歓迎の準備を進めている。
その瞬間に立ち会う事を望まない私は、あえて、今この場所に来た。
この日のために飾り立てられた空間。訪れたものを導くための、風に踊る多くの灯火。
今日に限っては、はるか遠くに浮かぶ瞬きにも負けることのない、揺らめく信仰の証。
その向こう側、今宵の主役の降り立つ、祈りの空間。
私は、その空間と私を隔てる、簡素な木製の引き戸に手を掛ける。
それほど強く力を入れるまでもなく、音も無く引き戸は開かれて行く。
引き戸の動きに合わせて、光量を増す光の筋。
それを見る事で、明かりの灯されたこちらの空間と比べても、引き戸の向こう側の空間の方が、より明るい光に照らされていることが解る。
光の筋は、私の視線を跨ぎ、その全身を包み込む。
音も無く、光のみに満たされたその空間。そこに私は、足を踏み入れる。
そのまま、後ろ手にこの空間を隔絶する引き戸を閉じた。
そこにいたのは、光りに包まれた今夜の主役。静かに佇む、神の子。
私は、静かにその目前に進み出る。そして、この場所をお借りした理由と共に、その姿に想いを捧げた。
『ああ、イエス様。もし本当に、お祈りへの後付け設定が赦されるなら、あの日一度だけここに来た、あの日の私の祈りを使わせて下さい』
「先輩、私こういう所に今まで来たことがないので良く解らないんですけどどんな事お祈りすれば良いんでしょうか?」
私は隣で真面目に手を合わせている先輩に問い掛ける。我が家は典型的な日本の家族とも言える一家なため、こう言う場所には今まで全く縁がなく、今日初めてきた。
先輩は閉じていた眼をそっと開いて、こちらを向く。マフラーの上で、もさっとしているその長めの髪がもさもさ揺れる。
「そうだなあ、私はいつも世界の平和とか自分の幸せとか、今日みたいな日はそれこそ素直におめでとうございますとか……」
人差し指を立てながら少しだけ上目遣いに目の前の十字の像に向き直りながら答える。マフラーの上で、もさもさと、また髪が揺れる。
先輩の中では、世界平和と自分の幸せと誕生日おめでとうは、一緒くたになってしまうようだ。
「何かお願いごととかはないの?」
また、もさもさ揺らしながら、こちらを見る。
「今のところ、それほど切実にお願いしたいことがないんですよね」
もさもさ髪ばかり見ながら話している訳にもいかないので、視線を先輩の視線に合わせながら続ける。
「先輩の言葉を借りるならおめでとうございます、ぐらいしか言う事がないかな」
私はお手上げ、と言う感じのポーズで先輩に答える。今のところ、真面目な話、神頼みしなきゃいけないことがない。
「あはは、じゃあ何もお願いしないで取り敢えず保留にしておけば良いよ。今度お祈りに来た時にでも思いついたら今日の分もお願いすれば良いよ」
先輩は髪の毛をマフラーの上でまた、もさもさと揺らしながら笑った。
「えー、そんなマンガの後付け設定みたいな事を神様に対して何てやっちゃって良いんですかー?」
私はちょっと呆れ気味に突っ込んでみる。先輩はより一層もさもささせながら笑っていた。
「あはは、良いんだよー私の神様は結構融通が効くんだから」
先輩に、私の神様何て言われると、本当にそんな風に何でも融通が効いてしまうような気がする。
思い浮かぶのは、そんな些細な想い出。私の中で思い浮かぶ先輩は、いつもマフラーの上で髪をもさもささせながら笑っている。
私は、自分の中に湧き出た願いをその場所に残し、先ほど入ってきた引き戸を開けて、光の筋に背中を見送られながら、その空間を後にした。
門を出る前に、あの日を思い出して、私が先ほど後にした空間の横に立つ、白い像の方に向き直って、軽く会釈しておいた。
あの日も、門を出る時に、先輩だけが思い出したように駆けて行って、その像にお祈りを捧げていた。
門を出て、少し歩いた先にある、歩道橋。
あの日と同じように、私は歩道橋に足を掛けた。
歩道橋を上りきった所で、突風のように凍てついた風が駆け抜けた。
「先輩、寒いです……」
私は正直な感想を言葉に出した。本当にとても寒い。というか、一気に風が強くなった気がする。
「いやあ、寒いよねえ本当に、ここまで来ると海が目の前だから海からの風が強く吹き付けるんだねきっと」
先輩が手袋でもこもこになった手に、息を吐きかけながらそう言う。
「あーそっか、海が近いから風強いんだ」
私も素手に息を吐きかけながら呟く。
「そうそう、海が近いから海の眺めもとても綺麗なんだけど、それよりもほら」
そう言って、私の手を取りもう一方の手で、上の方を指さす。もこもこした手が辛うじて指差す形になっている。
その指にそって、頭上に眼を向けると、この街で一度も見たこともないような、星々の輝きがそこにはあった。
その日もらった手袋で、同じ形で空を指さしながら、あの日見たのと同じ空を、同じ場所で見上げる。あの日と変わらない輝きがそこにはあり、あの日と同じ、全天に描かれた神話の光がそこにはある。
星々のスクリーンに投影される、数少ない想い出の日々。
私と先輩との想い出なんて、実を言うと、そんな去年の今日にあった出来事ぐらい。
入学直後、部活動紹介で一生懸命に星の話をしていた姿、その後廊下でちょっと強引に他の一年生を勧誘している姿、入部した後初めての自己紹介の時の姿、初めての観測会で熱心に新入部員に説明してくれている姿、夏の合宿で楽しそうに星や星座について解説している姿、部活の後の帰り際の挨拶、部長と今後の活動について話している姿、お別れ会で初めて見た先輩の涙、その時私が流した涙の意味。
そんな、大切な想い出にすら至らないような、他愛もない想い出のかけら達。
僅かな甘さと、棘のように残るほろ苦さを残して、送られていった映し出される日々。
そして、最後に投影されるのは別れの日。
卒業式、先輩は今日この学校からいなくなってしまう。私は一年生だから、卒業式に出席する義務はない。希望者だけは出席可能だから、私は誰にも言わずに一人だけこっそりと出席した。
先輩の名前が呼ばれる時、私も釣られて緊張した。先輩の凛とした声と、横顔が記憶に残っている。
式の後、友達の卒業生達に囲まれている先輩の姿をちらっと見て、結局その中に入って行く事はできなかった。
そこで姿を見せることが出来るだけのものを、私は先輩と積み重ねていなかった。
過ぎていく日々の中で、十二月のあの日の出来事だけ胸の中においていて、ただ流れるままに日々を過ごすしか出来ていなかった。
それでも、私は帰り難くて、いまこうして部室の中で、先輩の席の真横の、窓際に腰掛けて、先輩の良く座っていた、席を眺めている。
夕暮れ時のオレンジ色の光が、あの日貰った想い出と、この部屋に先輩の残した想い出を照らしている。