天井下がりの世迷言
それはまだ家にいた。
疲れ草臥れた身体で帰宅すると、それはさかさで出迎えてくれる。
「まだいるんだ……」
朝と全く同じ姿で、天井下がりはそこにいた。
私は天井下がりを横目に、布団を敷く。風呂に入るも億劫だ。
聞こえるのは冷蔵庫の小さな唸り声。車の音も隣人の生活音も聞こえない。何も聞こえず、ただどこからか風切り音だけが聞こえている。
――ひゅるり、ひゅるり。ひゅるりり、ひゅるる。
「――ごつん」
自分の口から洩れた音に、ゾクりとした。ああ、いけないいけない。こんなことを考えていたら余計なモノを呼び寄せる。
そしてこういう日に限って、彼らは姿を見せない。腹の上に座る少女も、天井を這い回る夜蜘蛛も、真っ白な毛布を被るお化けも同様に姿を見せない。
静かすぎる夜に、居るのは天井下がりのみ。それはじぃっと私のことを見つめるのだ。
静寂に耐えられない。しかし何かを喋るには億劫だった。窓の外を見ると、ゆらりゆらりと影が動いている。どうやら世に迷った者が歩き回っているようだった。
こんな夜は珍しくない。私は布団を被る。大丈夫。朝になれば元に戻っている。
ひたり、ひたりと何かの歩く音。ひゅるりひゅるるりと風切り音。ぺたぺたぺたんと窓を叩く手の音。きぃきぃと鳴る蝶番。ぎゃあぎゃあと赤ん坊の泣き声。
――そして、遠くから聞こえてくる『ごつん』という音。
彼は落ち続けるだろう。
ひゅるりひゅるりと帯を引き、宙を斬り裂きながら地面に花を咲かせ続けるのだ。
世に迷い続ける者たちは、自分の死に方を再現する。死んで尚、死を夢見て死を目指す。
彼も、彼も、彼女も彼も。
――そして、天井からぶら下がっている彼女もそうだ。
世に迷い、彷徨い惑う。なんと悲しきその姿か!
しかし、私には彼らを救ってやれるほどの力を持っていない。誰彼構わず救いを求める彼らを、どう助けろというのだ。
手の届く範囲だけでもだって? 自分の手の届く範囲にどれほどの亡者がいるというのだ。一人助けたらまた一人。袖の触れ合う縁で広がる私の手が届く場所。彼らを一人一人助けていたら、自分までもやがて溺れてしまう。
だが、彼女は私をじぃっと見つめ続けるのだ。何か言いたげに、こちらをじぃっと。
「なんだよ、何が言いたいんだよ……」
私は、天井下がりに言う。
天井下がりは、ただじいとこちらを見つめ続ける。何か言いたげに彼女はこちらを見つめるのだ。
癇に障る。癇に障る癇に障る癇に障るっ!
私は苛立たしげに騒ぎ続ける感情を宥め、布団の中に潜る。
寝てしまおう。耳障りな静寂も風に乗って来る世迷言も放り出して寝てしまおう。
だけれど、私の耳に届く世迷言は、いつまで経っても私を眠らせようとはしなかった。