つばめが来るまで
僕は、今の電話を一生懸命思い出した。春花の言葉は、「真人さん。ごめんなさい。」の言葉だけだった。ただ、バックで船の汽笛の様な低い音が聞こえた気がする。あれは、何の音だろうか?港の近くで、船の汽笛が聞こえたのか?いや、もっと低い音の様な気もする。そうだ、霧笛ではないか?僕は、とっさにひらめいて、携帯電話のインターネットで納沙布岬の天候を調べた。『雨』となっている。納沙布岬は、雨の場合、霧が発生して視界が悪い場合が多い。その場合、沖を航行する船の安全の為に、霧笛を鳴らす。もし、あの音が納沙布岬の灯台の霧笛の音だとすると、春花はまだ納沙布岬にいる事になる。
僕は、『スーパー宗谷4号』に乗ると、時刻表を開いた。さっき、16時40分頃に納沙布岬にいたという事は、直ぐにバスに乗ったとしても、根室駅に戻るのは17時30分以降になってしまうだろう。そうすると、根室から釧路に戻る為には、19時10分の普通列車に乗るしかなく、これに乗ると釧路には21時38分になってしまう。それより、今日は根室で一泊して、明日の朝、根室から釧路に向かうのではないか。根室から釧路に向かう列車は多くは無い。常識的には、ホテルを出るのは7時以降だろうから、根室発8時22分の釧路行きに乗る可能性が高い。この列車は、釧路に10時38分に着く。
ところで、僕は明日の朝、札幌を7時03分発の『スーパーおおぞら1号』に乗るから、釧路には10時51分に着く。僕の推理が当たっていれば、上手くすると釧路で春花に会えるかもしれない。僕は、少し希望が見えてきたと思った。始め春花が失踪した時は、雲をつかむ様な状態だと思った。しかし、今は徐々に範囲が狭められてきた。
明日、春花に会えるかもしれないと思ったら、もう一つの事を考える余裕が出来た。それは、春花の結婚詐欺師疑惑である。僕は、どう考えても春花が結婚詐欺師とは思えない。今回の失踪には、何か深い訳があるのだと思う。春花はおばあさんを、とても大事にしていた。あんな優しい子が、僕を騙すなんて考えられない。僕が春花を訪ねて大津に行った時、彼女と一日中一緒にて、彼女の屈託のない笑顔や明るさに随分癒された。ふと気付けば、僕は春花の事を好きになっていた。だから、僕は彼女を信じよう。あの夜は、彼女は様子が変だった。とても寂しそうで、何か悩んでいる様でもあった。それが、今回の失踪につながっているのではないだろうか?あの時、彼女は酔って変なことを言っていた。『真人さん、私を助けてください。私を守ってください!』と泣きじゃくる様に言っていた。いったい、彼女に何があったのだろうか?でも、彼女に何があったにしろ、僕はいつも彼女の味方でいようと思った。そして、いつでも彼女の事を信じていようと思った。
僕がそう考えている時、メールの着信があった。春花からだった。
『真人さん、ごめんなさい。私の事は、忘れてください。私は、真人さんのお奨めの、宗谷岬と納沙布岬に行ってみました。本当に、素晴らしいですね。感動しました。もう、思い残す事はありません。短い間でしたが、本当にありがとうございました。あなたと出会った時、もしかしたら私にも、やっと幸福がやって来たのかもしれないと、一瞬、思いました。その瞬間だけ、とても幸せな気持ちになれました。本当にありがとうございました。さようなら。春花より』
僕は愕然とした。これは、別れのメールではないか?最後の「さようなら」は、メールの最後を示す言葉なのか?それとも、今までのお付き合いに対する最後を示す言葉なのか?そのとき、僕は最悪のケースを想像した。彼女は、自殺する気かもしれない。さっきの僕の想定は、あくまで彼女が元気で観光している事が前提である。もし、彼女が世をはかなんだとしたら、もうどんな想定も当てはまらない。霧多布に行くかもしれないし、知床の深い森に消えてしまうかもしれない。海に突き出た岬もたくさんある。心が折れてしまって、ふらっと飛び降りてしまうかもしれない。
僕は、メールを打った。春花の携帯が電源が入っていてくれたらいいと願いながら。
『春花ちゃん。僕は、すぐ君のそばに行く。だから、少しだけ待っていてくれないか。今、君はどこにいるの?おばあちゃんは、君が居なくなったらどうするの?僕も、君が居なくなったら、とても困るんだ。なぜなら、やっと一緒になろうと思える唯一の人が現れたのに、その大切な人が居なくなってしまうのだから・・。今、君が抱えている問題を、僕にも分けてくれないか。これからは、君の持っている重い荷物を、僕と二人で抱えて歩いて行こう。君は一人ぼっちじゃない。いつでも、僕の心は君の隣に居る。真人』
僕の想いが、春花に届いたかどうかはわからなかった。でも、今は春花を信じるしかない。僕は春花を信じる事にした。
僕は、札幌で駅の近くのビジネスホテルに泊まった。そして、翌日朝一の7時03分発、特急『スーパーおおぞら1号』で釧路に向かった。
春花からの返事は無かった。もし、世をはかなんで海に身を投げようと思ったりしていたら、もう間に合わないかもしれない。僕は神様に、春花を守ってくださいと、繰り返し祈った。釧路までの3時間48分がとてつもなく長く感じられた。釧路には、10時51分に着く予定である。春花が乗ったと思われる普通列車は、釧路には10時38分に着く。春花の方が13分早く着くので、もしこれに乗ってきたとしても、そのまま釧路湿原や釧路市内に行ってしまえば、出会うことは難しい。花咲線の列車が遅れてくれれば良いのだがと僕は願った。インターネットで厚岸の天気を調べてみた。「雨」となっている。
花咲線は霧が発生しやすい。雨だとすると、濃霧が発生して列車が徐行し、ダイヤが乱れているかもしれない。そうすると、春花の乗った列車も遅れてくる可能性がある。逆に、僕の乗った列車も、遅れる可能性があるのだが・・・。
幸運なことに、僕の乗った列車は釧路に定刻の10時51分に着いた。ふと駅の電光掲示板の案内を見ると、根室からの列車は霧の為、遅れていると案内していた。釧路着10時38分の列車は、約15分遅れで10時53分ごろ着くという。僕は神様が味方してくれていると思った。もしかすると、春花に会えるかもしれない。そうすれば、春花を守ってあげられる。どうか、この列車に乗って来てくれ、と僕は祈った。程なく、釧路駅のホームに根室からの普通列車が到着した。僕は、目を凝らして、降りてくる乗客を見守った。短い編成なので、降りてくる乗客も多くは無い。「春花が降りて来い」と、何度も願った。
しかし、僕の願いとは裏腹に、春花は降りて来なかった。乗客の降り終わった車内に駅員が入って、点検を始めた。僕の想定は外れたらしい。春花はこの列車には乗っていなかったのだ。僕の悪い方の予想通り、途中で降りてしまったのだろうか?
僕は気を取り直して、列車を降りてきた車掌に聞いてみた。
「すみませんが、この女性を車内で見かけませんでしたか?」
「う〜ん、覚えていませんね。いなかったような気がしますが・・・。何度も車内を回っていますが、見かけた記憶は無いです。」