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みやこたまち
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ミヨモノリクス ―モノローグする少女 美代の世界

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夏休み 3 川井


 
 暑い。蒸し暑い。シュウシュウという音をさせて、地面から湯気がたっている。これはもう、水を撒いたくらいでは納まらない。緑のサウナだ。体がベタベタして気持ちが悪い。あの、嫌らしい粘膜と皮膚との間に、水滴がびっしりとついているような気がする。シャワーを浴びて、そのまま外へ出る。

 背中から、このごろ羽根が生える兆候がみられる。肩甲骨の裏側のあたりが、ピリピリと痺れるように痛い。これは、近来まれに見る痛みで、体内から軋み伸びる一対の骨が、私の皮膚と、この粘膜とを突き破り、私は脱皮できるのだ。この羽根の成長と共に。
 だから、私はこの背中を誰にも見せるわけにはいかない。胸なんかはどうでもいい。こんなに固くて、何がつまっているのか分からない胸なんて、ただの皮膚の隆起じゃないかと思う。乳房などと呼ぶにはほど遠いこの微かな隆起には、希望なんてありはしない。私には、背中の方がよほど重要だ。

 一天俄にかき曇り、雷鳴が轟く。雨があたる。肩にも顔にも、腕にもお腹にも腰にも。雨は高いところから落ちくる。高さは、もうそれだけでエネルギーだ。この力は侮れない。雨は、私の膜を突き破って、私の体に直接触れる。シャワーでは決してできないことが、雨でならできる。それは、この雨の高さと、水の生成に原因があるのだと私は睨んでいる。雨に打たれる私は、身を守る術を何一つ持たない無垢な魂そのものなのだし、雨に打たれることによってのみ祓われる穢れにまみれている。暇潰しとはいえ、このような禊が必要になるような穢れを、私は背負ってしまった。

 私はそれを知りながら、その背徳に耽溺してしまった。それだって暇潰しには違い無いけれど、やはり人の欲望はエスカレートするものなのだろう。
 私ばかりが穢れている訳ではない。人間世界に生きている人は、皆、穢れ切っている。ただ、それに気づく人間と気づかない人間がいる。気づかない人間というのは、自分を穢すものの存在にも、既にそれに犯されているということにも気づかないのだから、当然、禊なんて考えも付かないだろう。
 薔薇園の彼女の精神的潔癖症は、気づいたためのものではなくて、穢れを妄想して騒いでいるだけのものだし、姉さんに関しては、もう、手遅れなくらい真っ黒だ。でも、その手遅れさ加減に、私は俄然やる気になってしまって、この有り様だ。

 少し寒くなってきた。風が出てきたのだ。庭が騒ぐ。雲が渦巻く。私は天神様の怒りをかってしまったのだろうか。もう一度、浴室に駆け込む。泥足でばたばたと、勝手口から走っていく。

「やめて。見ないで。私は竜神様の怒りをかってしまった。もう、橋を渡すための人柱にもなれないし、雨乞いの踊りも出来なくなってしまった。私はもう、この世界に、決定的に必要の無い、無駄な物になってしまった。生きている意味を失ってしまった。私は、穢れてしまった。私は、」

 ブクブクブクブク。

 手伝いの川井が、私の足跡の始末をしている。砂利や、草の切れ端や、雨水を、ブツブツ言いながら掃除している。
 私は、川井の幸せについて考えてやる。風呂の中に顎まで浸かって、ブクブクしながら考えてやる。川井は幸せについて考えたこともないだろう。だから、私は代わりに考えてやることにしている。でもそれは、例えば姉さんの幸せとも違うし、母さんの幸せとも違う。川井には、多分、幸せという概念は存在しない。

 川井は、私が物心つく前からこの家にいて、一切を切り盛りしていた。川井には、若かりしあの頃なんて無かった。今の川井は、物心ついた頃に見た川井と寸分違わない。川井は歳をとらない。川井は川井のままで、この世に在り続ける。過去も未来も、おそらく世界滅亡のその日まで。川井は普通の人間ではないし私とも違う。

 川井は私のことを、「お嬢様」と揶兪するように呼ぶ。下から嘗め上げるように「お嬢様」と呼ばれるので、私は上から刷毛で撫で下ろす様に「何? 川井」と応える。川井は私の乳母では無い。だから私は川井を一つの記号として捉えることに、何の躊躇も感じない。肉体的な接触もなく、血の繋がりも持たない者に、平等などという概念が適用できる筈がない。川井は謎ですら無い。
 部屋を整える。私の身なりを、母親の気に入るように整える。庭を整える。食事の支度を整える。旅行の計画を整える。整えて、整えて、整え続けている。朝から晩まで、春夏秋冬、年がら年中無休で、片時も休まずに川井は目の端に汚れを見つけては摘み、見つけては拭き取り、見つけては始末をつける。川井は、秩序を守る為に存在する。異物を排除するためだけにここにいる。川井が一番取り除きたい異物は、私なのだ。川井は私を排除したがっている。でも、私は川井なんて怖くない。私はこの家と繋がっている。血で繋がっている。体で繋がっている。記憶と精神とで繋がっている。いくら長い時間、この空間に留まっているからといって、所詮、川井は根無し草の風来坊だ。ここで生まれ育った私とは、格が違うのだから。

 体の繋がり・・・。

 人間の、特に男というものは、本当に体だけのものなんだと、つくづく思う。男の仕事は、自分の動物性を隠すためだけにあるのではなかろうか。
 いくら、私の台本が優れているからといって、兄さんも迂闊なものだ。あまり簡単に兄さんが屈伏するので、私は充分は背徳を感じることができなかった。
 兄さんは背徳の快感に打ち震えながら、無様な麻痺を二度も引き起こす程度の男だ。お腹も脇腹も、ギリシア彫刻コンプレックスの成れの果のようだったけれど、顔は、れっきとした日本人だった。私にとっては、そんなことはどうでもいいことだけど。
 私はとにかく、姉さんの更生を望んでいるだけで、兄さんはそのための手段にすぎなかったのだから。
 他人の汗を浴びて、相手の吐いた息を吸って、異物を受け入れるという経験は、3Kでは足りない程嫌なものだった。私はこの時だけ、粘膜の存在を有り難く思った。そうでなければ、アトピーと金属アレルギーと、寒冷蕁麻疹を足して、百倍にしたくらいの拒否反応を起こして、腫瘍と膿とで悶絶していただろう。

 私は確かに気の進まないシナリオにのっている。でも、私の生そのもの 私は確かに気の進まないシナリオにのっている。でも、私の生そのものが無意味と苦痛とに満ちているのだから、この上、苦労を重ねたところで、大差はない。私は負けてもともとのギャンブルに、体を賭けただけだ。

 「川井」

 私は、湯殿の中から叫んでみる。

「何でございますか。」

 と、しわがれた川井の声が聞こえる。
 川井は掃除を済ませて、母親もまだ戻らないので、懸案事項である私に掛かり切りになっているらしい。私さえ大人しく部屋に戻ってしまえば、川井は自分の電源を余熱モードに切り替えて、部品の消耗を減らすことができるのだろう。私の為に、最近の川井はオーバーヒート気味なのだ。湿気のせいで、歯車の調子も悪いのだろう。私は、少し優しい気持ちになって言う。

「川井、お前は風呂に入らないのかい?」
「私は、夜、皆様の後で戴いております。こんな時間からお風呂を戴くなどというふしだらなことは、いたしません」
「ねえ、川井」
「何でございますか」