トモの世界
少しだけ笑いをにじませてみた。反応をうかがう。
「姉さんも似合ってたよ」
蓮見もほんのわずかに表情を緩めた。いやな感じではなかった。
「イルワクのかわいい服を脱ぐのがつらかったさ」
それは嘘だ。蓮見も分かるはずだ。
「どうしても行くの」
蓮見。懇願するような口調でもない。
「足は痛むか」
「もう痛くない」
「本当はもうずいぶん前によくなっていたんだろう」
「わかっていたの」
「わかっていたさ」
「どうして」
「ここは居心地がよすぎるのさ。きっとあと二週間もここにいたら、お前が今考えているように、二度と帝国に帰れなくなる……」
「だから行くの」
「違う。だから行くんじゃない。……蓮見、南波少尉が待っている」
「南波……少尉」
「原隊に復帰するんだ。任務は終わっていない。私たちは部隊に戻る途中なんだ」
私は一歩歩み寄り、ヘルメットを脱ぐ。髪がうなじまで散る。
「CIDSも、機能は限定されるが、なんとか動く。電源が不安定だが、ビーコンも発信できている」
「本当に」
私を見上げる蓮見の目。まだ弱い。すっかりこの村で退行させられてしまったのだ。戦う者の目にはまだ少し遠い。
沈黙。
私と蓮見の間の一メートル。何もない空間。沈黙。
そして、銃声。
びくりと蓮見が身体を瞬間に緊張させた。
警戒の姿勢ではなかった。ただ単に驚いたのだ。
この村では銃声は珍しくない。誰かが獲物を狙った音だ。一発鳴り響き、そのあとに次弾が連続して続くことは少ない。このときも、二分ほどしてから、第二発が響いた。おそらくは、止め矢だ。誰かが獲物を仕留めたのだ。
「蓮見、もう一度言う。ここは私たちの世界ではないよ。お前が求めている世界でもない。お前は猟師ではないんだ。もちろん、ただの村娘でもない。お前がここにいても、ただ朽ち果てるだけだ。二度と、お前が探している場所にはたどりつけない」
「私が探している場所って、」
「極限の世界を見たかったんだろう。お前はもうそれを見たのか」
「極限の、」
「そう言っていた。違うか」
「……」
「お前はここに残れば、腐る。お前はイルワクに必要とされた人間ではない。ここに残って何をする。何もできない。ただの客人のまま、お前は腐るんだ」
わずかに蓮見は目を伏せた。数瞬。それくらいの時間。
「私は、お前を説得しに来たのではない。まして、お願いしに来たのでもない。ピクニックに誘いに来たのでもない。わかっているな」
ベッドの上の蓮見は、再び顔を上げ、私をまっすぐに向いた。
「先任として命令しているんだ。私たちは原隊に復帰する。それだけだ。戻る気がないのなら、お前は脱走兵として処罰される。いまここで私が処刑してもいいんだ。敵前逃亡を図った部下を銃殺する権利を先任は持っている」
むろん、帝国陸軍の歴史で、敵前逃亡を図った兵士を上官が即刻銃殺した例は一度もなかったが、務めて軍人らしい声音を作った。有無を言わせぬ上官からの命令と強制。イルワクの人々には存在しない言葉。命令と強制が、軍人である私たちの行動を支配している。そうしてこれまで私たちは行動してきた。
「蓮見、私は行く。非常呼集だと思え。外で待つ。編成完結まで五分だ」
それだけ言うと、私は踵を返し、蓮見の返答を待たず、そして彼女の表情をうかがうこともなく、部屋を出た。戦闘靴は木の廊下でことさら大きな音がする。サーシャは、おそらく別の居室にいるのだろう。顔を出そうとはしなかった。ここの人々は、去ろうとする人間を追わないだろう。そして、留まろうとする人間を拒まないだろう。蓮見はどちらだろうか。彼女がここに留まることを選んだとしたら、私は部隊になんと報告するだろう。戦闘中に行方不明になった。その一言で済まされるだろうか。おそらく、部隊は彼女を捜索しない。高価な費用をかけて教育し訓練された一人の准尉を失うのはもちろん痛手には違いない。だが、それだけだ。特殊技能を持っているのはパイロットも同じだが、空軍とは違い、パイロットを救出するための専門の救難隊は陸軍にはない。敵の部隊に囚われた友軍兵士を救出する作戦を実施することはもちろんあるが、戦場で行方不明になる兵士は数知れない。一人一人を追跡し捜索し救出する手立てを、今の陸軍は取らない。消耗品扱いまではしないが、高価な戦闘機を操縦するパイロットほどには重宝されていないのが私たちなのだ。
私は簡素な家を出た。
草の匂いがした。
空が青かった。
小さな畑では何かの作物が芽吹いていた。ふと見渡すと、家々の煙突からは薄く煙が流れていた。ここは戦闘地域ではなかった。フル装備の自分の姿が、ふと、恐ろしく場違いで滑稽なように思えた。
五分。
夜中に非常呼集をかけられ、暗がりの中を手探りで装備品をかき集め、それでも助教にどやされない程度に身づくろいをし、宿舎の廊下に並んだ記憶が私の中でよみがえる。五分以内に装備を整えて整列しなければ、懲罰的な運動が待っていた教育隊の記憶。男女の区別などなかった。小柄な隊員、筋肉質の隊員。男女の性差はその程度に考慮されていたにすぎなかった。私は彼ら、彼女らに引けを取らない行動を心掛けていた。もとより、祖父に連れられて山野を巡ったおかげで、同世代の人間と比べれば足腰は格段に強かった。氷点下の森の中でビバークした経験は、苛烈な訓練でずいぶん役に立った。それは、銃を撃つことよりもずっと。私は祖父に戦士としての素質まで磨かれていたのかもしれない。けれど、祖父は私が戦士になることを本当に認めていたのだろうか。それを確かめたことはなかった。
私の右手は、4726自動小銃の銃把に添えられている。人差し指は伸ばし、用心金の外に添えている。親指はセレクターレバーのそばにあり、いつでも安全装置を解除できる状態だ。肩から脇にまわした負紐は三点式で、素早く銃の重心を変えることで、速やかに射撃体勢を取ることができる。考えるよりも早く。身体が自動機械のように動くのは、まるで反射作用のようだ。だから考える必要がない。動けと命令する必要もなく、私は敵を倒すために据銃できる。
五分。
ドアが開く。
蓮見。
待っていた。
そこにはぎこちなさも頼りなさもない、戦士としての装備をまとった蓮見がいた。
「入地准尉……」
「蓮見准尉」
眦を決した表情。それがわずかに動いた。
しかたないな、そんな風に。
蓮見がよく見せた表情だ。
「編成、完結」
私が言う。とりあえず、言ってみる。
「やめてくれ。教育隊を思い出すから」
蓮見が笑いもせずに応えた。
「いいのか、残らないのか」
「残ってもいいの?」
「ダメだ」
「じゃあ、行くよ」
「お別れは済ませてきたか」
「サーシャと?」
「ほかにもいるのか」
「子供たち、」
「お前は子供に好かれるんだな」
「人懐っこいのさ。ここの子」
「イルワクの服、似合っていたよ」
「私もそう思う」
「柚辺尾の店でいくらでも買える」
「レプリカはいらないよ」
「本物さ。彼らの貴重な外貨獲得源だから」
「そうなの?」
「こう見えて、ここの連中は、案外したたかなんだよ。お前も外の血として獲得されるところだった。……本当に行っていいんだな」
「いいよ、」
「足の具合は、」