トモの世界
今夜は眠るのだ。そして次、安らかに眠るのは、高泊の宿舎だ。私は原隊へ復帰する。あの殺風景な二段ベッドの置かれた自室に帰るのだ。私の世界へ。
ベッドにあおむけになり、目を閉じる。眠ることも大切な任務。睡眠不足は判断力を失わせ、加速度的に体力を奪う。
眠ることだ。
私は夢を見ることができる。<PG>とは違う。彼ら、彼女らは判断に迷わない。だが、私は迷う。迷った末に、判断をする。そうした積み重ねで、正しい判断を行える自分を得る。
極彩色の夢を見てみたいと思ったが、しかしここではオーロラすら見られない。
それは、また次の機会に。
イルワクの娘が着る素朴で質素で、けれど愛らしい春服。
私はそれらを脱ぎ、ベッドの上にたたんで並べた。
ベッドも教育隊で習ったとおり、コインを落とせば弾むほどに整えた。
かわいらしい春服を見下ろす私は、帝国陸軍第五五派遣隊の装備を全身に纏った戦士の姿だ。インナースーツは温度調節機能付きで、私の体温と高性能な燃料電池で駆動する。蓮見のスーツは被弾し故障しているのが気がかりだが、また沼地に落ちたりしなければもう問題ないだろう。国境を越えれば、味方が展開している。
4726自動小銃、セラミックプレート入りの防弾ベストとチェストハーネスに予備弾倉、メルクア・ポラリスMG-7A制式拳銃、バックパック。
そしてCIDS。敵の電磁衝撃波ですっかり沈黙していたが、ショウキから受け取った旧式CIDSのパーツを組み込むことで、よみがえった。ただし、基本的な機能に限定されている。やはり部隊が違ううえに七年前の基板と入れ替えただけでは、お役立ち機能のほとんどが使えなかった。特に敵味方識別装置(IFF)の類は一切機能しなかった。衛星とリンクし、壁の向こうの対象物をディスプレイに表示させたり、口の中やのどの奥でつぶやいた声にならない声を音声化したり、といった機能もダメだ。友軍との遠距離交信もできない。衛星とリンクできないことが決定的なのだ。ただし、私の個人認識が可能になったことで、パーソナルマーカーが復活した。南波が健在で、彼らが私たちを捜索してくれているのならば、向こうから私たちを発見してもらえる可能性が非常に高まったということだ。
失われていた線が、つながり始めていた。
南波にいまほど会いたいと思ったことはなかった。彼は私の世界を体現する存在だったからだ。
彼は生きている。彼は生きる方法しか知らないからだ。確信的に私は思う。
すべての装備のチェックを済ませ、私はそっと部屋を出た。
居間には、ターニャの気配がしていた。
朝食をとることなく、私はこの村を出るつもりだった。朝食の時間帯にぶつかると、蓮見を「奪還」できなくなると思ったのだ。戦闘中に戦闘糧食をむさぼるのと違い、この村で手料理を囲んで過ごす食事の時間は、とりわけ極限状態に対する憧憬ばかりが募り、心の奥底にとてつもない寂寥を抱えているらしい蓮見のような人間には果てしなく危険だ。
「トモ、」
ターニャが振り向いた。昨夜の食事のときと変わらない、穏やかな表情だった。
「ターニャ。ありがとう。さようなら」
最後は帝国の言葉で言った。
「サヨナラ」
ターニャも帝国の言葉で言った。最後はイルワクの言葉で、そう思ったが、彼女の思いやりなのだと理解した。
私はフル装備で家を出る。むしろ、村娘の服装をしていない今のほうが場違いで滑稽に思えたが仕方ない。光学照準器を載せ、イルミネータやフラッシュライトをレールに装備した自動小銃は、ウッドストックのシンプルなイルワクのライフルに比べると、電気工事の道具のように物々しい。村人にこの4726自動小銃を見せたなら、すぐにこれが銃だと理解できないかもしれない。銃床は樹脂製。レシーバーはプレス加工された金属製だが、やはり樹脂を多用し、軽量化とメンテナンスの容易化を図り、錆などから銃を守っている。
「よお、戦士」
道端でセムピと出会った。
私の姿で、すべてを理解したのだろう。初めて霧の中で出会ったときのような、警戒心が唇の端にあった。
「トモ、あんたはその恰好が似合ってるよ。不思議だな。娘らしい恰好もまあまあだと思っていたが、顔つきからして変るもんだな。そうか、出ていくのか。てっきり、あの娘と、ここに永住するのかと思った」
「ここへ連れてきてくれて、あんたには感謝する」
「余計なお世話だったようだな」
「そんなことはない」
「出るなら急げ。追い出したりはしないし、見送りもしない。だが、あのお前の相棒は、危ないぞ。お前ら流に考えるならな。いや、もうあの娘は、俺たちの一人になっているかもしれんぞ」
「それでも連れて行く」
「好きにするさ」
セムピはライフルを肩にかけていた。私は弾倉を装填した自動小銃を提げていた。
あまりにも違う出で立ち。
私はセムピに最後の言葉を考えていた。が、彼はさっさと私とすれ違い、森への道を進んで行った。
蓮見は部屋にいた。
表情が硬かった。
おそらく、私の来訪を予想していたのだろう。
私の姿を、この村にやってきたときと同じ、私の世界の装備を見ても、表情はさほど変わらなかった。だから私は言った。短く。
「帰ろう」
手を差し伸べたりはしない。
もし蓮見が私を拒絶するならば、もうそれは仕方のないことだと思っていた。
私は自分の世界へ帰ろうと思ったのだ。ここは私たちの世界ではない。ターニャの家で襲われたあの安堵感は、このイルワクの世界に私の責任が一切ないからだ。この世界において、私がなすべき仕事はまったくなかった。だから、安堵できたのだ。私は私の世界にやるべきことがあり、私の世界には私の責任がある。
「帰ろう、蓮見」
私が過ごしたターニャのあの部屋と同じく、簡素な造りの一室のベッドに、蓮見は腰かけていた。かすかに甘い匂いがした。香料というよりは、彼女自身の匂い。まるで、少女のような。それは蓮見が着ているイルワクの娘の衣装から漂っているのかもしれなかった。
イルワクの服は、蓮見にはよく似合っていた。もともと童顔で、華奢な体つきの蓮見は、軍の装備品すべてを身に着けると、機械仕掛けの人形のように見えてしまう。それを彼女は自分の身体の一部にしていたはずなのだが、今こうして対面すると、イルワクの、飾り気はないが素朴な衣類のほうが、ずっと似合っているように見えて、私は不快だった。
「行こう。……帰ろう」
三度、言葉を蓮見に向ける。
蓮見はうつむいたりせず、じっと私に視線を向けている。まるで助教が新隊員を訓練へ連れ出そうとしているようではないか。
蓮見の装備は、すべて壁際にまとめられていた。見ると、手入れされた形跡があった。几帳面に並べられ、銃は壁に立てかけたりせず、床の上にしっかりと置いてあった。汚れもふき取られ、それこそ、助教にしつこく教え込まれた銃の手入れを忠実に行ったあとのように見えた。
「ここは、私たちの世界ではないんだよ。それはお前も分かっているはずだ」
私は立ったままで言う。
「姉さん」
蓮見が口を開いた。甘えたような声音はなかった。多少割り引いたとしても、いつもの蓮見の声に近い。
「その服、似合ってるぞ」