トモの世界
4726自動小銃の分解結合を終え、棹桿(コッキングレバー)を引く。精密な部品同士が噛み合う心地よい音がする。撃鉄がコックされ、引金が発射位置まで下がる。私は目を閉じて銃を取り、構える。ストックを肩付けし、目を開く。光学照準器(スコープ)の照準(サイト)が、右目の正面にピタリと位置していることを確認する。射撃の基本である「ボア・サイティング」だ。祖父からみっちり教え込まれたことだ。そして右手親指と人差し指の付け根で銃把を支えるように構え、用心金(トリガーガード)の外で伸ばしていた右手人差し指を引金に乗せる。このとき、引金は必ず人差し指第一関節より先の腹の部分で引く。関節部や第二関節の腹では引かない。引き金の遊びも調整してある。実家にしまってあるボルトアクションライフルほど細かい調整はできなかったが、引金を引いて時間差なく撃鉄が落ちるようにしてある。その調整には何日もかける。新隊員の教育中、銃にゴテゴテとアクセサリーのように取り付ける装備品の使い心地ばかりに気を取られる同期が多い中、私は銃を分解し、引金の作動部分を磨いたり調節したりに時間をかけたいと思った。それはなかなか叶わなかったが、助教からは別の意味で目を付けられたはずだ。余計なことはするなと言われながらも、銃の経験があるのかと二言目に訊かれた。第五五派遣隊では、装備品の調整や調達が一般部隊よりもかなり自由が利くため、自分の銃は自分好みに仕上げることができた。
引金を引いてみる。
少ない遊びでイメージ通りに撃鉄が落ちる。肩に反動が来ないのが寂しいくらいだ。
一連の動きを終えて、私は大げさなほどに大きく息を吸い、吐いた。自分の心と身体を、取り戻せているだろうか。
ターニャが私を呼んでいる。
食事だ。
ターニャには感謝していた。仮に、ショウキが言うように、一服盛られていたとしても。ターニャの視線や言葉に心を惑わす力が入っていたとしても。
この村に初めて足を踏み入れたあの夜。
私は消耗しきっていた。
イルワクの力なのだろう。来た者を受け入れ、そして仲間にするための。そこに悪意はないに違いない。部族としての本能なのだ。何世代、何十世代と培われてきた能力だ。猟師に適性があるように、戦士に適性があるように、丹野美春が学者としての適性はあっても、決して戦士にはなれないように、ターニャは衰弱した人の心を素早く察知し、そして懐柔する手段に長けているだけなのだ。そういう能力が職業化されていても、もう今の私は不思議にも感じなかった。
丹野美春に会いたいと思った。
私の体験をすべて、文書のレポートに仕上げる前に、あの高射砲塔の下で、都野崎の紀元記念公園を歩きながら、桜の花を、暖かい春の風を全身に受けながら、話したいと思った。都野崎を離れ、陸軍に入隊し、今日までのことを。
そのためには、この村を出るしかない。
ターニャが私を呼んでいる。
私は銃をもとに位置に戻す。
そして、短く息を吐く。
外はまだ十分に明るい。
十七、
高緯度地域には、冬と夏しかない。さらには、長い昼と長い夜しかないのだ、とも。十月に陽が暮れると、二月まで長い夜が来る。海は凍りつき、刺すような風が吹き、晴れた日には、空にオーロラが輝くという極北の地の話。極地では極彩色の夢を見るとも読んだことがある。輝くオーロラの下で、長く明けない夜を過ごしながら、凍てつく時間を、極彩色の夢が彩るという。
北緯五十度に引かれた国境線からわずかに北へ上がったところに私はいる。イルワクの村。極彩色の夢を見るにはまだ低緯度だ。
北方戦域は、椛武戸の東側に広がるシェルコヴニコフ海全域を含めて、さらに北極圏近くまでを戦闘領域に含めている。だが、帝国の実効支配が及ぶのは、北洋州から島伝いに北緯六十度付近までと、北洋州本島から北東部へはるかに伸びる庫裏流(くりる)諸島だ。戦域全体を見渡すと、ガス田やメタンハイドレート採掘基地が点在しているが、都市と呼べるものはほとんどなく、冬になれば流氷が埋め尽くし、砕氷艦以外の船は航行すらできない。だから、散発的に島をめぐる戦闘が発生しているだけで、北極圏まで北上して北方会議同盟(ルーシ)連邦軍と帝国軍が衝突した過去はない。オーロラを見上げながらの作戦行動とは魅力的に思えたが、極寒の戦闘を考えるとうんざりする。厳冬期の戦闘は、敵との戦いだけではなく、まずは部隊の戦力の維持そのものが激しい作業になる。吹雪の中での戦闘には高度な訓練を要求される。体温の維持にしてもそうだし、寒冷地戦闘に特化した武器と、凍らない食事が必要になる。
ターニャが私のために用意してくれた食事は湯気を立てていた。戦闘糧食とは違う、人のぬくもりを体現したかのようなメニューだ。私はターニャと言葉少なくテーブルを挟んで食事した。私の中では、それがこの村でとる最後の食事だと決めていた。だから、感謝の言葉をターニャに向けた。
「あんたは、ここにいたらいいのさ」
ターニャは控えめに味付けをした煮込み料理を私に振る舞い、静かに言った。
「ターニャ、ありがとう。けれど、ここは私の場所ではない」
意識をしているはずなのに、自分の声音が普段と違うことにいやでも気づく。けれど、ターニャに荒々しい言葉をぶつける気にはならなかった。
「どこに行っても、自分が納得できれば、そこが自分の場所になるのさね。あんたは、この村が気に入ってくれると思っていたよ」
「悪いところ……ではないと思う。本音は、一ヶ月でも一年でも、ここにいられればと思う」
「ならいたらいいのよ。いてもいいのよ」
ターニャは木の器から木のスプーンで煮込み料理を口に運ぶ。煮込まれているのはシカの肉だ。私の郷愁を胸の奥底から強引に引きずり出す、涙が出そうな味。柚辺尾の実家が思い出される。
「ここにいて、私は何をしたらいい?」
「あんたは、柚辺尾でここの男衆みたいな仕事をしていたんだろう。聞いたのよ」
「仕事にしていたわけじゃない」
「銃の撃ち方も、獲物の獲り方も知っているってね」
「教わったから」
「誰にかね」
「祖父」
「あんたのお祖父さんは、猟師なのかね」
私は黙ってうなずいた。元兵士。元狙撃兵。そのことは伏せた。
「いい手ほどきを受けたんだろうさ。あんたの目を見ればわかるよ。まっすぐで、素直だ」
「私のどこが素直だ」
「……野の花のようなものさ」
「花?」
花、という単語に、私は紀元記念公園の満開の夜桜を思い出す。思い出す、というより、フラッシュ・バック。
「あんたはね、自分で思っているほどに、粗野でも、みすぼらしくもないの。私から見れば、あんたは儚い。けれど手折れない。逞しい。私が知っている帝国の人間とは、ちょっと違うよ」
「私が、野の花?」
「言葉づかいも、あんたは無理に凛々しく凛々しくしようと努力している。こっちの言葉にも堪能なようだけれど、あんた、言葉は誰に教わったのかね」
「ユーリ……祖父の友人」
「ユーリ。北方会議同盟(ルーシ)連邦の人間かね」
「ええ」
「北洋州では、同盟(ルーシ)の人間と、あんたたち帝国の人間が、一緒に暮らしているのかね」