トモの世界
空になった弾倉を左手に持ち、弾頭を上に向けた七.六二ミリ弾を、一発ずつ、弾の状態を確かめるようにして弾倉へ籠めていく。錆も浮いていない。パチンパチンと小気味よい音がする。私は弾薬を弾倉や銃に籠めるこの音と手ごたえが好きだ。やはり祖父の手ほどきで銃を覚えたあのころを思い出す。
すべての弾倉に弾薬を籠め、手のひらで弾倉側面を軽くたたき、中の弾薬の居住まいを多少そろえる。これで弾詰まりが起きないとは言えないわけだが、弾倉交換をする際など、兵士たちがみな行ういわばまじないのようなもの。
なぜ私は戦うのか。
なぜ私が銃を持ち、戦場で戦っているのか。
シカイに問われた言葉が耳に蘇る。
私は、帝国の戦略などどうでもよかった。部隊の動かし方は知識としては知っている。軍学校で兵棋演習も図上演習もやった。特殊作戦部隊に要求される任務は多種多様で、そのためにはあらゆる兵種、兵器の運用を知らなければならないからだ。
だがそれが私の人生に必要か。
必要だ、と自答する。
生きるためだ。すべて、道具なのだ。
けれど私が戦うのは帝国のためではなかった。結果的に帝国のためになっているだけだ。私も蓮見と同じなのだ。彼女はこのミッションに入るとき、言っていた。自分を極限状態に置きたくて、その状況を味わいたくて軍に入ったのだと。
私は天国の入り口を見てみたかったのだ。
いや、それも違うと思った。私はまず柚辺尾から、北洋州から出たかった。そのために都野崎の大学に入学した。北洋州とは全く違った日常を手に入れることができた。だが、それだけだった。私は満たされることはなかった。だらだらとした日常は怠惰で心地よかったが、私はもっと別な世界を知りたかった。だから、あの元戦闘機乗りが話してくれた現(うつつ)と夢との「緩衝地帯」が本当にあるのなら、その場所を見てみたいと思った。そしてその場所は戦場にあるのだ。戦場に行くには軍隊に入るのが確実だった。そのうえ、さらに確実に北方戦域に投入されるのは一般部隊よりも特殊作戦部隊で、だから私は特殊作戦部隊を志願した。
丹野美春は私が陸軍に入ることに最後まで反対した。担当だった南沢教授もそうだ。まったくの畑違いの世界に飛び込むことを理解してもらえなかった。
だが、私は大学を卒業し、おとなしくどこかの企業に入り、指折り数えて休日を待ち、自費で天国の入り口を探す気にはなれなかったのだ。私の人生の設計図を考えたとき、積極的消去法で選ばれたのが陸軍の特殊作戦部隊だった。
私企業の構成員になったところで、天国の入り口には近づけない。
役人になっても同じだ。
祖父のあとをついで猟師になったとしたらどうだろう。やはり現と夢の緩衝地帯を探すことは叶わなかったに違いない。森の中で自然と対峙し、命を落とすことがあったとしてもだ。
天国に最も近い場所は戦場だ。命のやり取りが日常なのが戦場だ。そうした場所に、現と夢の緩衝地帯は存在する。
戦場に近づくには、自ら戦闘に飛び込めばいい。
戦闘を行うのは軍隊だ。兵士になれば必然的に戦場へ行けるのだ。
南国の戦闘地域ではダメだった。
砂漠の戦闘地域でもダメだ。
そもそもそうした場所で繰り広げられている紛争に、帝国軍は関与していない。他国の戦争に加担しない閉鎖的外交を帝国はもう一世紀続けている。
船の上でも、水の中でもいけない。
戦闘機パイロットになることも考えた。私が最初に天国の入り口の話を聞いたのは、あの元空軍パイロットだった。丹野美春も、私が戦闘機乗りになるのだと説明すれば、その動機も理解してもらえたかもしれない。詩的な言葉を好む彼女になら、雲のずっと上には天国の入り口があるのだ、自分はそれを探しに行くために、誰よりも早く高く空を飛ぶことができる戦闘機に乗るのだと説明すれば。
だが、戦闘機乗りは戦場を歩くわけではない。戦場の空を飛ぶだけだ。戦場を歩くとしたら、撃墜されたときだけ。私がインタビューしたパイロットのように。そしてそのとき、翼をもがれた戦闘機乗りは平常心を失い、自分の目で見、身体で体験した状況を自分で疑うようになる。そしてそれが伝聞されて、パイロットの間から他の兵科の隊員に伝わっていき、最後は伝説に落ち着くわけだ。
私は伝説の語り部になるつもりはなく、ただ現場を歩きたかった。
その世界を見るためには、敵の兵士を何百人斃(たお)してもいい。味方を何十人喪(うしな)っても構わない。私さえ無事ならば、私自身が現場の地を歩くことができれば、彼我の戦闘状況などどうでもよかった。
極論だったが、私はそう考えているのだ。
自分を生かすために、部隊を助ける。味方を何十人喪ってもいいと思ってはいるが、それでは戦場で生き残れない。私を生かすためには、周りも生かさなければならないのだ。そうして、いつか「緩衝地帯」を見つけるつもりだった。
ここがそうなのだろうか、と思う。
私は4726自動小銃を分解しながらふと手を止める。
元空軍パイロットが迷い込んだワタスゲの原なら、私は歩いた。
霧に巻かれ、前後左右の感覚すら奪われそうになりながら、あの冥府の入り口のようなワタスゲの原を歩いた。
そしてここへ来た。
ここが天国への入り口だというなら、シカイやセムピたちが天国の番人だとでもいうのか。違う。彼らはこの地に住む先住民族(イルワク)だ。帝国とは全く違う信仰を持ち、文化を持ち、伝統を持った異民族だ。天国のイメージもなにもかも、帝国で生まれ育った私とは違う認識があるだろう。
私は村をさまよっていたあるとき、部族の墓地に迷い込んだ。集落を見下ろす、小高い丘に墓地はあった。死者となった彼らは天へ引き上げられるのではなく、死者の国から集落を見守るのだ。天からではなく、集落を見渡せる場所からだ。イルワクと私たちの生死観の違いがそこにある気がする。死んで去るか、死んでなお共に暮らすか。