トモの世界
声に弱々しさはなかった。けれど、負傷する前の蓮見が持っていた険のある声音とも違った。
戦意を抜かれた。
その言葉がいちばんしっくりくるだろう。
この村は危険だ。
私の直感は確信をもって私自身に警報を鳴らす。
シカイが言ったではないか。「疲れたときは、私でもターニャの家には近づかない」と。それが彼女たち歓待係の技術をあらわす正確な一言ではないか。おそらく、歓待係の彼女たちは、私たちの内なる弱さを増幅させ、それを温かい毛布で包みこむように外界から遮断するのだ。
イルワクがなぜ、何十世代にもわたって同盟国や帝国の領土に暮らしながら、一種治外法権的な自治を維持し続けているのかが何となくわかる気がした。立ち入れないのだ、よそ者は。立ち入ったが最後、自らの意思でここを出ようと決意するまで、全身を絡め取られるように同化してしまうに違いない。彼らはそうした性質を持っているのだ。
「蓮見、気分はいいのか」
私はあえて、作戦が続行中であるよう、抑揚のない上官風の言い方をした。
「姉さん、怖い声して、どうしたの。私は平気だよ」
「蓮見、私たちは原隊へ復帰する。明日にもここを出よう」
「待って、姉さん。サーシャが、」
私は気配に振り向く。もし銃を持っていたなら、ホルスターから抜き、とにかく銃口だけは相手を向けるように据銃し、引き金に指をかけるような勢いで。
「トモ、」
サーシャだ。背格好は本当にターニャとよく似ている。もちろん声も、しゃべり方も。
母。
あるいは祖母。それも、個々人が裡うちに持っている理想像としてのそれ。
同盟軍のモデルハウスよりも危険じゃないか。
かろうじて私はまた正気を保っている。そう信じる。
ここは同盟軍の拠点ではない。そうであったなら、もっと対応は簡単だった。味方でなければ、敵だ。そうした簡単な論理は、このイルワクの村では通用しない。
「トモ、ようこそ。疲れは癒えたかい」
「サーシャ、蓮見は、優羽(ゆは)はわたしが連れて行く。私たちは、国へ帰る」
「トモ、待ちなさい。この子の足は、まだ完全に治っていないのよ」
サーシャの優しい微笑み。私は目を閉じず、真正面から受けて立った。
「姉さん、」
「蓮見、立てるだろう。私と行くんだ。原隊へ復帰する。作戦は続行中だ。南波少尉と合流、」
蓮見がゆらりと立ち上がり、私の両手を握った。見上げるように、私を向く。うるんだような瞳。蓮見はもはや戦士ではなかった。シカイに言われずとも、いまの彼女を見て、自動小銃を持たせようとは誰も思わない。おそらく南波少尉ですら。
南波。
サーシャの心地よい匂いを感じながら、私は南波を強く思い出そうとした。
薄汚れた顔。
くだらない冗談。
戦闘中の迷いのなさ。
そして、私は彼の名を呼ぶ。
「レツ」
「姉さん?」
「蓮見、私と行こう。ここにいてはダメだ。烈が、お前を待っている」
「レツって……」
蓮見が記憶を手繰るようなしぐさを見せた。私の背中を悪寒がかけめぐる。サーシャは蓮見に、何らかの投薬を行ったのではないかと場違いな想像をしてしまう。記憶の混濁。外的に行うなら、幻覚作用を持つ野草でも煎じて飲ませるか、粘膜に摺りこめばいい。そうした野草は、北洋州全域にいくらでも自生している。帝国では所持するだけで刑罰が与えられる麻薬の類だ。
「南波烈(れつ)、南波少尉だ、蓮見准尉!」
私は語気を強めた。瞬間、蓮見の表情に衝撃に似たものが走る。
「姉さん、……入地、准尉」
「トモ、聞きなさい」
サーシャ。
「この子は、まだ遠くまでは行けない。足が癒えるには、もう少しの時間が必要なの。あなたも、この子が心配なら、もう少し待ちなさい」
レツ、どうか、私を……。
私の手を握る蓮見の手のひらを、私は逆に握り返す。強く。
「蓮見、……また、来る。装備の手入れはサボるなよ」
「姉さん……」
鼻にかかったような蓮見の甘えた声がうっとうしい。頬を平手で張ってやりたい衝動を抑える。
「トモ。帝国の戦士。……あなたにも休息が必要ね」
休息。
必要だ。
だがそれは、原隊に復帰し、南波少尉と合流し、高泊の宿舎に戻ってからだ。
十六、
その男と出会ったのは、イルワクの猟師村に滞在して七日が過ぎたころだ。私は平穏かつ起伏のない村の日々に耐えがたい安らぎを感じていた。安らいでいたのは事実だったが、危機感は募る一方だった。村に来て五日目に蓮見と会ったとき、危機感は確信となって私の背中を這いまわっていた。
主に危機感は夜、退屈を持て余し、ターニャの作った食事を食べ、ベッドに転がってからゆったりと這い上がってくる。長居は無用だと思ったが、実際、蓮見の足は強行軍をするには心もとない状況だった。まだ数日は必要だ。私たちが装備品として携帯するファーストエイドキットでは、簡単な止血や鎮痛はできても、傷そのものを回復させる機能はなかった。危機感だけが私を焦らせていた。そんなとき、私は彼に出会ったのだ。
昼下がりだった。私は村内の細い道をただ歩いていた。ターニャの家にいても何もすることがない。かといって、招かれざる客である私には仕事もなく、ライフルを担いで森へ出かけていくセムピの後をついていくわけにもいかなかった。猟へ行かないかと誘われたことは確かにあったが、私は猟師ではなく、兵士であり戦士だった。猟師は自分の銃で狩りをする。私には自分の銃があったが、それはシカを撃つためのものではない。敵と戦うための銃であり、自分と部隊を守るための銃だ。無駄な弾薬など一発も携帯していなかったし、むしろ残弾数が心細かった。EMPダメージを受けたCIDSは、携帯ツール程度の工具では分解しても気休めにもならず、結局部隊本部はおろか、近傍に展開しているはずの友軍とも通信はできなかった。私は鬱屈していた。村娘と同じ格好をさせられ、しかし歩き方は村娘のそれではなく、軍人のそれだった。自分でもわかっていた。
「よう」
男のほうから私に声をかけてきた。おおらかな気質のイルワクとはいえ、帝国陸軍の兵士であることは、もはや村中の人間全員が知っていた。だから、村人から気安く声をかけられることはほとんどなかった。例外は子供たちだけだ。そして、シカイの家にいた少女。彼女とは何度か道でであったが、まっすぐに澄んだ瞳を私に向け、言葉少なく、私について質問を投げかけてきたのだ。他愛もないこと。外の世界のこと。けれど、男は違った。野卑た、と形容しても差し支えない笑みを一瞬浮かべた彼は、やはりイルワク独特の衣装をまとい、顔の下半分は無精ひげに覆われていた。
「陸軍のどこの部隊だ」
きれいな帝国の言葉だ。しかも、地方訛りがほとんどない。
「部隊とはぐれたのか。それとも逃げ出したのか」
男は肩からやはりライフルを提げていた。この村で男のほとんどが銃を持ち、男たちの職業のほとんどは猟師だ。農夫もいたし、道具を修繕することを生業とする者もいたが、むしろ少数派で、この村の男たちはみな銃を持った狩人だった。
「さっさとこの村を出たほうがいいぞ」
男は私の前に立ちふさがるようにして立つ。
「なぜ、」