トモの世界
そうするうち、私はシカイの家にたどり着いた。探すまでもなく、ターニャの家を出、こんもりとした茂みに隠れたカーブを曲がれば、すぐに見えてくるのだ。葉脈たる径(こみち)は入り組んでいる。道を外れると畑か背の高い茂みに遮られ、進めない。あるいは、戦術的にそうした道を作っているのかもしれないと私は装備を一切持たない身軽な身体でひとり思った。そう。セラミック板入りの防弾ベストやCIDSはおろか、予備弾倉を詰め込んだチェストハーネスや制式拳銃も持っていない。まず武器を持たず、見知らぬ土地を歩くのは、自分でも思い出すのに苦労するほどに久しぶりだった。陸軍入隊以降は初めてかもしれない。
直近でなら高泊の墓地だ。
駆逐艦や巡洋艦が停泊する高泊軍港を見下ろすあの墓地を訪れたあの日以来だろう。それでもあの日ですら、私は携帯電子端末(ターミナルパッド)を持っていた。帝国の街で市民として暮らすとき、携帯電子端末(ターミナルパッド)は必須アイテムで、身分証明から決済に至るまで、あの電子デバイスがなければ行動に支障がある。
けれどいま私は、ターニャが用意してくれたイルワクの衣類だけを身につけている。気恥ずかしさを隠せないのは、この服が十代の娘が着るようなかわいらしさを隠さないからだ。こんな服は、柚辺尾にいたころですら着た記憶がほとんどない。
イルワクの衣類は、ほぼすべてが天然素材でできているようだ。交易によって、下着や一時的な防寒衣類は、帝国や同盟国から入ってきているようだと以前どこかで聞いたことがあったが、おおむね椛武戸のイルワクたちは、衣食住を自己完結している。小さな村落でも、そうした傾向は顕著で、生活にかかわる道具などは、ほぼすべて自前で揃えているということだった。もちろん、近傍の部族とのやり取りもあるのだろう。しかしそうした文化がめずらしいと私は思わない。たかだか二百年程度さかのぼるだけで、私たちの帝国も似たようなものだったはずだ。自動車もなく、航空機もなく、もちろん電子ネットワークなど存在しなかった世界。いまのイルワクたちよりもさらに「不便」な世界だ。
帝国本土の地形は、都野崎のような広大な平野部を除けば、たいがいが山がちであり、その山地は例外なく急峻だ。身一つで分水嶺を超えるには、ある程度の経験と技術が必要とされる。だから、国土の広さの割に、さまざまな文化風習が密集して形成されることになるのだ。
峠を越えるには、つづら折りの山道を行くしかなかった。
大河を渡るには、渡船しかなかった。
一山隔てた隣国へ赴くには、数日を要し、それは複数の人頭を必要とした。
荷役は自力か、家畜を使わざるを得なかった時代。
そうした時代を思えば、イルワクの生活様式に特異性を私は感じない。だが、彼らの暮らしにおそらく私は憧憬を感じることもないだろう。私はすでに「この時代」の帝国軍軍人であり、人工衛星や早期警戒管制機に導かれて行軍し、航法に振り分ける必要のなくなった体力と思考力で、敵を探し、殲滅するのだ。それが私にとっての当たり前の文化であり、技術であり、日常だ。
ゆえに私はいまふいに放り込まれた非日常の中にいる。
シカイの家の扉の前に立ち、武器をまったくもたずに、異民族の族長宅の扉をたたこうとしている自分の不用意さに思い至る。彼らは昨夜は敵愾心をひそめていたが、今朝はわからないではないか。もし彼らが身体の一部のように扱うだろうライフルや山刀で向かってきたら、私は抵抗する暇もなく、葬り去られる。たとえ体調が完調で、CIDSをはじめとする利器の数々が生きていたとしても、この至近距離と多勢にはいかんともしがたい。
もし彼らと本気で事を構えようと考えるなら、私は自分の武器は使わない。できる限り彼らから離れ、身を隠し、そして、八九式支援戦闘機に近接航空支援を要請するのだ。村ごと消し去ってもらうために。私が彼らに本気で対峙するならば、それしか方法はなかった。
ドアをたたく。
すぐにドアの向こうに気配が歩み寄る。窓から私が見えていたのだろう。おそらくそうだ。扉は静かに開かれ、しかしそこにいたのは、私が予想していた髭面でたくましい族長シカイの姿ではなく、私が見てもはっとするほどに色が白く、濡れたような黒さの髪を肩まで伸ばした女性だった。歳のころはおそらくは蓮見と同じくらいか、さらに若い。十代かもれしない。
「あなたが、帝国の、戦士?」
イントネーションがたどたどしかった。彼女は帝国の言葉に染まりきっていないのだろう。
「トモ、だ。長(おさ)に会わせてほしい」
「シカイに、」
「そうだ」
私はかぶっていたニット織の帽子を脱ぎ、そして頭を下げた。
「帝国の戦士さん」
鈴が転がるような声だと思った。無理して小さなアンプから大きな音を出そうとしているような蓮見の声音とは違う。
「あなた、目が、黒いのね」
まっすぐ少女の視線に射られた。
「わたしの、目?」
「あなたの、国の人は、みんな、茶色の目をしていると、聞いていた」
「……私も、茶色の目だ」
「夜の、森のような、色をしている」
「夜の、森?」
私が訊き返すでもなく言うと、少女はくすりと笑い、身をひるがえして私に道をあけた。
「どうぞ、祖父が待っているから。奥のお部屋」
「ありがとう」
少女は赤や青の織模様が入った、ワンピースのような服を着ていた。場違いな言葉かもしれないが、姫君のような。しかし私はその直感はそのまま当たっているだろうなと思った。この家は族長の家であり、その長を彼女は「祖父」と呼んだのだから。
私は脱帽したまま、戸口でもう一度、帝国風にお辞儀をした。そして、わずかに段差になっている上り框で、ターニャが用意してくれた、くるぶしまで隠れるがずいぶんはきやすい革の靴を脱いだ。この部族は、ふだん家では靴を脱ぐようだ。ターニャの家もそうだった。最初私はターニャの家に土足のままで上がりこんでしまったが、人心地ついた私をなだめるように、ターニャは私のコンバットブーツを脱ぐように勧めてくれたのだ。
「戦士、来たか」
広い居間を抜けようかというところで、奥から野太い声が私の耳を打った。
家の中は、薪ストーブが燃える匂いがしていた。
「そこへ座れ」
シカイは分厚い髭を指で絡めるようにさすっていた。齢はいくつくらいだろう。五十は超しているだろうが、まだまだ隠居とはほど遠い、鋭い眼を持っている。部族長のそれというよりは、そう、歴戦の猛者だ。
「帝国の、戦士か」
「ただの兵士だ」
「昨夜は『戦士』だと名乗ったように記憶しているがな。ただの兵士、か。最近の兵隊は奢った装備をまとうものだ」
昨日の私の出で立ちのことを言っているのだろう。いまの私は、おそらく一般的なイルワクの村娘の装いだ。
「何人殺した」