トモの世界
私は部屋に入ると、4726自動小銃二挺を肩から降ろした。一刻も早く降ろしたかったのだ。四キロ以上もあるこの三〇口径ライフルはひどく重いのだ。それに、この部屋には場違いすぎると感じていた。それは私の装備もだ。チェストハーネスを外し、腿からはホルスターを外した。メルクア・ポラリスMG-7A拳銃はベルトにランヤードでつながっていたが、それも外した。スライドを引き、薬室から弾を抜く。弾倉も外し、予備弾倉とまとめて壁際にタクティカルベストや背嚢と一緒に置いた。
身体が一気に軽くなった。それだけで倒れそうになった。
装備は二〇キロ近い。長期作戦を考慮していなかったとはいえ、まず弾薬が重い。銃も重い。装備を外すと、本当に身体が軽かった。
ブーツも脱いだ。そして、戦闘服も脱いだ。身体からも戦闘服からもひどい臭いがした。
ふと扉を向くと、ターニャはいなかった。
私はアンダースーツのみを身に着けた格好で、しかも裸足で居間まで戻った。屈んで薪をストーブにくべているターニャがいた。
「おばさん(・・・・)、」
私の口をついて出たのはそんな言葉だった。おばさん。ああ、どうしたというのだろう。
「ああ、脱いだのかい。寒いだろう。こちらへおいで。少し温まりなさい」
私の身体はもう思考ごとターニャに支配されていた。それが苦痛ではなかった。私はターニャの隣にかがみこんだ。自分の臭いが気になった。それ以上に、小気味よい音を立てて燃えるストーブが、何にも勝って暖かく、心地よかった。
「ひと心地ついたら、奥にお風呂場があるからね。使いなさい」
立ち上がったターニャを見上げ、私はまた黙ってうなずいた。
誰にも見せられない。特に南波には。そう思う気持ちが、私の裡のごくごく片隅に存在していたが、そのような思考はもはやどうでもよくなっていた。
三〇分近くストーブに当たっていたと思う。ターニャは狭いキッチンで何事か準備をしていた。夕食だろう。私は勝手に思った。そして、ターニャがこしらえる夕食を心から望んでいる自分に気づいたのだ。なんということだ。
私はようやく立ち上がり、ターニャの言葉通りに風呂場へ向かい、湯を浴び、身体を洗った。浴室は狭かったが、何も不自由を感じなかった。素早く身体を洗ったが、湯の心地よさに全身が絡め取られるような気分だった。
脱衣場には着替えが用意されていた。ターニャや、キロール、そしてセムピやイメルがまとっているのと同じ、フェルト素材の衣類。傍らにはバスタオルまでたたまれていた。身体と髪の水分をぬぐう。生き返る。
ターニャが用意してくれた着替えは、男性用のようだった。ややサイズが大きめだったが、着心地はよかった。乾いた下着と乾いた上着とズボンが、何も言えないほどに気分を軽くしてくれた。
居間からは夕食の匂いが漂っていた。
自動人形のように、私は居間へと歩いた。
自らの意思で身体を動かしている意識はなかった。
テーブルに着くようターニャが促し、私は従う。
用意された食事は簡素だった。塩漬けの肉と、薄味のスープ。そして、ずっしりとしたパン。私は何も言葉を発せず、それらをすべて平らげた。ターニャは穏やかな表情で私の様子を見ながら、自らも食事を摂っていた。
ターニャは余計なことを一切詮索してこなかった。なぜ初対面の私に、それも帝国陸軍の戦士に、このような歓待を施してくれるのか。私はしかし、それらにほとんど疑問も感じず、食事の後、不意に襲ってきたすさまじい疲労感に抗うこともできず、この部屋のベッドに倒れこむようにして意識を失ったのだ。
半身を起こしたまま、窓を向く。
高緯度地域である一帯は、この時期すこぶる夜明けは早い。
腕時計もはずして、装備一式と並べてある。ベッドから下りるのは億劫だった。
私はまた横になった。
横になった瞬間、私は「現実」をふと思い出す。私の現実。戦士としての現実。南波少尉の顔。夢を見ているのではないかと、肌を逆なでするような恐怖感が湧いた。そう、それは恐怖感だった。これがすべて夢ではないと言い切れるだろうか。私はもしかすると、海軍の輸送機から蓮見を追って飛び降り、負傷し衰弱していく蓮見とともに、あの原野で朽ち果てる寸前なのではないか。私は本気でそれを考えた。そして私は、これが夢ならば醒めないでほしいと強く願っていた。原隊への復帰。国境へ向けての移動。蓮見の回復を待ってそれを実行する。そして、生き残っているはずの南波少尉と合流し、あの「日常」を取り戻す。
そう頭ではストーリーを浮かべても、意思の本体は追従してくれなかった。
失いたくないのは、この家の暖かさではないか。
ターニャの笑顔であり優しさであり、ぬくもりなのではないか。
違う、と口に出して否定する。
違う。私は帝国へ帰る。部隊と合流する。そして、戦う。
なぜだ。
戦う必要があるのか。
あのワタスゲの原の光景が瞬間的に脳裏に走る。
パイロットのインタビュー。
冥府の入り口は実在したのだ。
あのワタスゲの原。
敵と味方の緩衝地帯ともいえるあの場所。
道理にかなっていた。あそこは最前線なのだ。最前線で撃墜され、あるいは遭難した兵士が遭遇する場所として、あの場所はごく自然な位置関係だと思う。
冥府など存在しない。
すべては現実の出来事なのだ。
だから?
丹野美春の声が聞こえた。
もう、見たんだから、いいでしょ。
京訛りの美春の声だ。
帰ってくればいいの。都野崎に。
違う。
また一緒に花火を見ましょう。紀元記念公園の桜、今年は見事だったわ。来年、あなたと一緒に見たい。
違う。
トモ、帰って来て。あなたのいるべき場所は、本当にそこなの?
ここ……、この家じゃなく、北方戦域が、私の居場所。
なぜ?
戦うのが私の仕事だ。
本当に?
なぜそう言う。
トモは、探していた場所を見つけた。もう、あなたが探しているものはみんな見つかった。そんなところにいる必要、もうないでしょ。だから、
帰って来て。
誰だ、誰の声だ。
帰って来い。何をしている、入地准尉。
南波の声だった。
どこにいる、入地准尉。姉さん。
南波、私はここにいる。CIDSが故障した。自位置を特定できないし、報告できない。もしビーコンを捕捉できるなら、
トモ、どこにいる。
烈……レツ、
姉さん。話の続きをしよう。夢を見ない人間なんて、本当にいるのか?
いる。
俺は会ったことがないぜ。
論文で読んだ。<PG>の、ごく一部の、生体的エリート……。
お前見たのかよ。
私は見ていない。
俺は自分の目で見たものしか信用しない。
南波らしい。
だから、本当にそんなものがいるのなら、俺が確かめてやる。
烈、
姉さん。
だから。
早く帰って来い。
「レツ、」
自分の声で目を開いた。
眠っていた。
私は疲れている。
薄明るい青に沈んだ部屋。
壁際の装備。立てかけた4726自動小銃。
優しい匂いがする。布団の匂い。枕はやわらかい。マットレスはくたびれていたが、いやな音を立てるわけでもなく、固く私の身体を反発させるわけでもない。
帰って来い。
わかっている。