トモの世界
鋭く誰かが呼ぶ声が耳を打つ。大きめのフェルトの上着を着た子供が小道から転び出るように駆け寄ってきた。年のころ、五歳前後だろう。髪は肩まで伸びており、男の子なのか女の子なのか、容姿からも声からも判別できない。そして私にとっては、ずいぶん久しぶりに出会う子供だった。いや、八九式支援戦闘機に破壊しつくされた縫高町にも子供はいたに違いない。瓦礫の山と化した家屋に、学童用のカバンや人形が散らばっていたのをふと思い出し、私はいやな気持ちになった。
「キロール(・・・・)、ただいま」
セムピは私がぎょっとするほどにやさしい声で答えた。背の雑嚢の居所を正すように背負いなおすと、ライフルを提げていない右手で、駆け寄ってきた子供の頭を撫でた。無骨で道具のような手のひらだった。
「セムピ、お帰り」
セムピを見上げる子供の目がきょろりと動き、彼らに続いて村に足を踏み入れようとしている私を向いた。
「セムピ?」
「お客さんだ、キロール」
キロールとは子どもの名前なのだろう。呼ばれた子供は、子犬が闖入者に向けるような視線を、まったく遠慮なく私に向ける。
「……兵隊さん」
キロールが訝るように言う。
「……帝国の、……戦士だよ、キロール」
セムピが答える。
戦士。
セムピはそう言った。兵士でも兵隊でもなく、戦士、と。
「兄貴、」
蓮見を背負って微動だにしないイメルがセムピに低い声音で言う。言外に、私たちを本当に村へ入れていいのか、確認している口調だ。
「いいんだ、イメル。……イリチ准尉、」
うなずく。
「トモ、でもいいか。俺たちは苗字を持たない。あんたのことを呼ぶなら、名前のほうがいいだろう」
「兄貴、」
「イメル、いいんだ。俺があずかる」
「預かるって、」
「トモ、」
セムピが私に言う。
「このまま南へあと三時間も歩けば国境だ。あんたらの言うな。行くなら止めない。好きにするがいいさ。だが、俺の見たところ、あんたは国境にはたどりつけないだろう。行き倒れがいいところだ。ずいぶん頑張ったようだが、俺のささやかな好意だ。村で休むなら休んでいっていい」
蓮見が薄目を開いていた。キロールと呼ばれた子供の目と比べて、なんと力のないことか。セムピの言ったとおりだった。私以上に、蓮見はもはやこの村から歩いて出ることもできないだろう。国境など、問題外だ。
「この娘さんはあんたどころじゃないな。足もひどく腫れてる。悪いことは言わん。休んでいけ。いま休まなければ、二度と歩けない足になるかもしれん。この村に医者はいない。だが食事と休む場所は貸してやる。癒えるまでだ。ただし、癒えたらすぐに出て行ってくれ。間違っても、俺たちはあんたらを歓迎するつもりはない。さっさと消えてほしいから、休めと言っているんだ」
「……ありがとう」
「礼を言われる筋合いもないさ。……キロール、……」
セムピはキロールを向き、低く早口で何事かを伝えた。それは彼らの言葉だった。私には意味が分からない。
彼らイルワクはシェルコヴニコフ海沿岸域に広範囲に分布している。文明化された部族もあれば、古からの暮らしをそのまま守っている部族もある。北洋州出身ならば「イルワク」が彼らの言葉で「兄弟」を意味していることも学校で習う。そして彼らが共通の文字を持たないことも。言葉は口頭で伝承される。ただ、近代になって、外界である私たちの帝国や同盟国との交易を行う上での不自由を解消するため、文化圏が近いほうの国の言葉を取り入れた部族が多い。母語はイルワクの言葉でも、バイリンガル、トリリンガルは少なくないという。生きるための道具として、言葉を使っているのだろう。里者と交易をして収入を得る部族もまた多いからだ。
「トモ、」
セムピが再び私を向く。
「とりあえず長(おさ)のところへ案内する。お前たちは名乗る必要はないし、余計なことは一切言わなくていい。俺が説明する。多少なりとも俺を信用するなら、黙っていろ。いいか」
「わかった」
立ち止まっていた私たちは、またセムピを先頭に村へと進んだ。
彼らの家々は高泊の郊外に見られる開拓者たちの住居によく似た、丸太を組み合わせた家だ。一軒一軒は小ぢんまりとしており、いずれも平屋建てだった。私が柚辺尾の初等科学校の副教材で見た、藁や束ねた枝で棟上げした家(チセ)はいまでは一般的ではないのだろう。現代の帝国の民家が、中世のように瓦と紙と木で作られていないのと同じだ。
ぞれぞれの軒先に、狭い畑があった。それ以外に目立った大きな建造物は何もなく、集落はおよそ二十戸あるかないか、その程度に見える。私は、同盟軍のパイロット保養施設の光景をよみがえらせる。いま思い出すと、あの村はあまりに出来すぎていた。眼前の猟師村と比べるまでもなく、人の営みの匂いがまったくしなかった。あの村に突入する前に感じた訝しさはそれだったのだ。
私たちが出会い、そしてここで歩いてきた道は、村の中心部を貫いている。これは彼らイルワクにとっての街道なのだろう。一本たくましく続く道。村を貫き、道は起伏をなぞって、そのまま霧と闇の中へ消えていた。このまま国境まで続いているのか。おそらくそうなのだろう。
「トモ、こっちだ」
セムピ、イメル、蓮見、私の順で、道沿いのとある家に向かう。やや窓の飾りが華やかで、扉も立派なものが取り付けられているが、家そのものがほかより極端に大きいわけではなかった。これが「長」の住居なのだろう。
「ここで待っていろ。俺が行く」
セムピは背から雑嚢を降ろし、ライフルも家の玄関横に立てかけた。イメルは蓮見を背負ったまま、立っている。イメルの呼吸は規則正しく、汗もかいていない。恐ろしい体力だと思った。そしてイメルの背で、蓮見は目覚めていた。
「……姉さん、ここは」
か細い声。風が枝で鳴るような。
「猟師の……イルワクの村だ。……大丈夫だ」
「イルワクの……」
「敵(ルーシ)の捕虜になったわけではない。……大丈夫だ」
言ってはみたが、私にその確証があるわけではない。たとえば敵がこの村を勢力下に置いており、一小隊、いや一分隊でもとどまっていたとしたら。が、半日近くの道程を共にしてきたセムピの振る舞いに、偽りはないように思えた。なにより、道中、私たちに鋭い言葉を撃ちこんでも、物理的に危害を加える気配はなかった。友好的な態度を一切取ってこなかったイメルでさえもそうだった。黙って異国の軍人を、それも少女と見まがう容貌の蓮見を背負ってここまで歩いてきてくれたのだ。彼らに感謝こそすれ、敵対する意思は、もはや私の中にはかけらほどもなかった。
扉の中に消えたセムピは、ものの五分もせずに戻ってきた。そして、彼の背後には、豊かな髭を蓄えた、がっしりした長躯の男が立っていた。
「シカイ(・・・)だ、この村の長だ」
壁に立てかけていたライフルを再び肩にかけ、セムピが言う。
「帝国の戦士か。……よく来たな。『武運長久を』とはいかなかった様子だ」
帝国軍であいさつ代わりに使われる言葉を、シカイと呼ばれた壮年の男は、揶揄する風でもなく口にした。
「トモ、です」
私は4726自動小銃二挺を肩から提げたままなのに気づき、あわててそれを降ろした。