トモの世界
そして、セムピが私に向き直った。
「俺は、あんたたちの味方をするわけではない。こいつが言ったとおり、あんたたちがやってる戦争にははたはた迷惑している。獲物を探して来てみたはいいが、案の定だ。あんたらがごちゃごちゃやったせいで、なにもいなくなった。
俺たちはさっさとあんたらを追い帰したいんだ。自分の国へ帰れ。だから仕方なく、あんたらがあんたらの国にさっさと帰れる手助けをするだけだ。いいな」
「わかっている」
「この娘は、イメルが連れて行く。こいつは俺よりもずっと力があるからな。猟に出かけて獲物を背負って帰るのはこいつの役目だ」
イメルはこれ見よがしに大きなため息をついて見せ、そして蓮見のかたわらへしゃがみこんだ。
「解体しないだけありがたいと思え」
私を見ようともせず、イメルが言った。すねたような口ぶりだったが、やはり敵意らしい敵意は感じない。
「シカに比べたら軽いもんだ。こんな小娘。……銃を離せ。背負えない。その重たい背嚢もいらん」
私は蓮見のバックパックのバックルを外した。予備弾倉のポーチと、彼女の4726自動小銃も受け取った。
イメルは蓮見の背中に腕を回し、そのまま担ぎ上げるようにして自分の背に載せた。
「お嬢ちゃん。俺の首に腕を回せ。言ってることはわかるな」
蓮見は薄目を開いたまま、イメルの言にしたがい、腕を彼の首に回した。装備を外した蓮見は華奢だった。
「この娘の荷物は、あんたが持っていくのか。どうせならここに捨てていけ」
セムピが言うが、私は返事をせず、蓮見のバッグパックと銃を肩にかけた。予備弾倉は私の弾倉入れに入れた。
「行くぞ。こいつは足が強いからな。こんな小娘一人分背負ったところで、歩く速さにいくらも関係ない。いいな」
セムピは蓮見を背負うために解いたイメルの荷物を担ぎ、歩き始めた。蓮見を背負ったイメルが続いた。私は重みを盛大に増した装備をいやでも意識しながら、しかし、歩くのだ、とそれを上回る意識付けを行い、彼らに続いた。
装備を捨てるわけにはいかない。国境まではまだ距離があるのだから。
二人の猟師は、私に脅しめいたことを言ってきたが、しかし歩くことにかけては決して無理はしなかった。それから一時間程度歩くと、小休止を取った。
彼らは言うとおりに足が強かった。セムピはイメルの銃と弾薬と雑嚢を、イメルは蓮見を背負い、それでも私たちの作戦行動時の歩行速度に匹敵するスピードで歩いた。私の背で、蓮見の装備と銃が重かった。彼らから脱落しそうになった。が、ついていった。私は蓮見の背を追ったのだ。
かわりばえのしない風景もまた、精神的にはつらい。何十分、何時間歩いても、風景はほとんど変わらず、霧も晴れなかった。自分がどこにいるのかもわからず、頼りになるのは、二人のたくましい猟師の足取りだけ。霧の中で見え隠れする樹林は黒々としていて、私は小さな木立に敵の自走砲が潜んでいるのではないかと、時折抑えきれないほどの恐怖をなんとかなだめて歩いた。それでも実際、はるか稜線あたりに、擱座し捨てられた戦闘車両や、まるで十字架のように水平尾翼と垂直尾翼を空へ向けて逆立ちした航空機の残骸が見え隠れし、いまだ私たちが前線にいるのだと実感した。
動物たちの姿はほとんど見えなかったが、一度だけ、濃い霧のずっと向こうに、ずんぐりとしたシルエットが見えた。最初に気づいたのは、先頭を行くセムピだった。
「山の神様(キムンカムイ)だな」
さすがにセムピは警戒し、ライフルのボルトを引いて、薬室に弾を籠めた。だが、据銃はしなかった。セムピの言葉は私でも分かった。クマだ。
しばらくその場でセムピはシルエットを向いてじっと様子をうかがっていた。距離は三〇〇メートル以上あったろう。ずんぐりとしたシルエットは、北洋州から椛武戸の森林や山地に生息し、銃を持った人間以外に天敵を持たない食物連鎖の頂点に君臨する大型のクマだった。
クマはじっと私たちを向いていた。
動く様子もなかった。あちらも私たちを警戒しているのだ。
クマはよほどのことがなければ、自ら人間に近寄ってくることはない。生き物としての性能(・・)は人間とは段違いで、道具を持たない人間がクマを察知するはるか以前に、クマは人間に気づく。開けた場所で人間が先に彼らを発見することはまずないといっていい。気を付けなければならないのは、森の中での不期遭遇だった。素手で勝てる相手ではなく、また、こちらが逃げようとしたところで、走って逃げ切れる相手でもない。祖父とともに山を歩いていたユーリがマグナム弾を装填したリボルバーを持っていたのはそうした場合に使用するためだ。もっとも、ユーリは祖父と私と三人で山を巡って一度たりともリボルバーを抜いたことはなかったが。
「なにもしない。見ているだけだ。……クマがめずらしいか。行くぞ」
セムピが言う。
クマはまだ稜線から私たちをうかがっている。と、さらに小さなシルエットが二つ、大きなシルエットに駆け寄った。
「親子連れだ。警戒しているんだ。こちらから立ち去ればなにもしてこない。下手な動くをするなよ。子連れの母グマはやっかいだからな」
「わかってる」
セムピはまた歩き出した。霧が巻き、親子連れのクマの姿をかき消した。あたりは薄暗くなり始めていた。
「暗くなってきたな」
イメルが言った。蓮見を背負い歩いているが、息遣いがまったく変わらない。たいした体力だと私は正直に感心した。当の蓮見は背で揺られて半分眠っているようだ。それでいい。眠れば体力も多少は戻る。
「行くぞ、お嬢ちゃん」
セムピは私をそう呼んだが、侮蔑的な響きは感じられなかった。それは敵意のなさと同じに、彼が持つ独特の雰囲気なのだった。
あたりは薄暗くなったと感じると、急激に光を失いはじめていた。太陽が沈んだのだ。風はほとんどなかったが、気温はそうとうに低くなってきていた。かわりばえのしなかった風景が多少変化したのはこのころで、続いていた原野は、低い木々がまばらに生える林になり、そして針葉樹と広葉樹の混じる森になった。そう、今回の作戦を始めたときに歩いた森のような。
「もうすぐだ。もうすぐ、俺の村だ」
何かが燃える匂いが鼻に届いた。木が燃える匂いだ。焚火の類ではなく、これはストーブの排煙に違いない。そう思ううち、道は茂みを回り込むようにカーブし、その先に小さな裸電球の街灯が点っているのが見えた。
「ここだ」
村の入り口がそのカーブだったのだろう。セムピは立ち止まり、私を振り向き、言った。
村は紺色に染まった木々と、青く沈み始めた空の下にあった。気づけば霧はやや薄くなっていた。木製の電柱が立っており、そこに白熱球式の街灯が点っている。ぼんやりと弱い光だ。指向性のやたらと強いダイオードの街灯に慣れた私の目には、暖かく優しく見える。
「セムピ!」