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トモの世界

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 雨の匂いなら、四季のはっきりした帝国で育った者ならだれでもわかるだろう。雨粒がまだ地面を濡らす前の、少し湿ったような風の中に、雨の匂いを嗅ぐ。北洋州では、そうした要素が本土よりも多種多様なのだ。
 結局のところ、山野では人間も動物の一種なのだ。人工的な街に住むとその事実を忘れがちになる。そして、動物が本来持っている匂い……臭いを消しにかかる。
 私はペパーミントの香りが好きだ。
 ラベンダーの香りも好きだ。
 都野崎の郊外、古風な集落の生け垣として咲いていたクチナシの香りも好きだ。
 南波はガソリンの匂いが好きだといった。それ以上に戦場で嗅ぐ硝煙の匂いに興奮するのだといって笑っていた。
 私たちは、都市で生活するうちに、生き物としての人間が持つ匂いを、他の匂いで消してしまうことを覚えた。あるいは人間がか弱い存在だった進化の過程で、自らの臭いを消すのは、生存するうえで大切なことだったのかもしれない。進化の過程で失った鋭敏な嗅覚を補うために、誰でも感知できるレベルの人工的な匂いをまとうことを覚えたのかもしれない。しかし、生き物としての……動物としての臭いを忌避するようになったのは間違いない。
 祖父には体臭があった。
 身体に染みついた弾薬の、硝煙の臭いだったり、年配の男性が持つ、どこか安心感を抱かせる匂いだったりした。
 が、もっともほかの男たちと違っていたのは、祖父からは紛うことなき獣の臭いが漂っていたことだった。獲物の臭いではない。人間が本来持っていたであろう、動物としての臭いだ。そしてそれは私は不快に感じなかった。
 山野でそれは獲物を追ううえで有効に働いた。嗅覚が衰えた私たち向けに調合された人工的な匂いは、山野の獣たちにとってマーカー以外の何物でもなかった。目立つのだ。夜戦で曳光弾をばら撒くがごとくだ。
 泊りがけで獲物を追うとき、私たちはテントで寝泊まりし、水浴びもしなかった。次第に臭いは強くなる。けれどあの頃の私はそれを不快に感じなかったのだ。
 猟師の臭い。いや、「匂い」だ。
 殺気、と置き換えてもよかったかもしれないが、けれどややニュアンスが違うように思う。同化、それなら近いかもしれない。
 祖父からは猟師の匂いがした。いや、獣と戦う動物(・・・・・・)の匂いだ。
 そして祖父は多くを声に出した言葉で語ることはしなかった。
 鋭い叱責を受けたのは、あの日、私が子連れのシカを撃とうとしたときだけだ。
 すべて、祖父はしぐさで語った。視線で、吐息で、そして、銃で。
 いま、私は可能な限りの機能性を追求した装備をまとい、精度、耐久性、機能性を評価されつくした自動小銃を持ち、故郷を思い起こさせる風景の中、古から猟で暮らしてきた本物の猟師の後ろを歩いている。
 彼らから漂ってくるのは、祖父と同じ匂いだった。

 風の中で、声を聴いた気がした。私は歩を進めることにほぼすべての意識を集中させていたのだと思う。なぜこんなに疲労感があるのか。海軍の化け物輸送機から脱出してたかだか一昼夜だ。この程度で意識が朦朧としてくるのはなぜなのだ。ときに自問しながら、私はパーティの最後尾を歩いていた。
 声は、蓮見のものだった。
 瞬間的に私は意識を拡大させた。歩を進めることだけに集中していた意識を、他へ向けなおした。
 蓮見がいなかった。
 気づいたのだろう、先頭のセムピ、二番手のイメル、二人とも振り向いていた。
 蓮見は細く続く道から外れ、茂みに倒れこんでいた。
「蓮見、」
 駆け寄った。
 荒い息をしていた。また熱発があったのか、彼女の額にはびっしりと汗が浮いていた。抱き起す前に、蓮見の身体に私は触れた。まず足だ。負傷している左足ではなく、私は彼女の右足に触れた。
 蓮見の右足は、大腿部から脛にかけて、こちらが負傷しているかのように筋肉がひどくむくんでいた。負傷した左足に大きな負担をかけられないため、無事な右足が必要以上に負担を強いられた。結果、体力も大きく消耗することになる。
 蓮見はもう歩けない。少なくとも、左足を根本的に治療するか、数日の休養を経なければ、作戦行動はおろか、通常の歩行すらままならない状況だ。
 見て、それがわかっているのだろう。パーティの先頭を歩いていたセムピが、じっと表情のない目で蓮見を見下ろしていた。イメルはいまいましそうな表情を隠そうともしない。彼に意見を求めたなら、答えはわかりきっている。だから私は先手を打つことにした。
「私が連れて行く。文句ないだろう」
 片膝をついた姿勢から、両膝を茂みに下ろし、私は蓮見の背中に腕を入れ、抱き起した。蓮見は薄く目を開いているが、焦点が定まらない。どこを見ているのかわからない。視線もほとんど動いていなかった。ただ、呼吸が荒い。銃から手を離さないのは、戦士としての最後の意地か。
「あんた、正気か」
 セムピが言う。低い声だった。
「置いていけない。この子は私の相棒だ」
 まっすぐ私はセムピを見据えた。
「無理だ。あんたには。いまでもやっとの顔をしている。それはあんた自身がいちばんわかっているはずだ。その子を抱えて歩くなんて、無理だ」
 わかっていた。
 蓮見を負い、装備も二人分、それでこの道を国境まで歩きとおすことは不可能だと。
 しかし、彼女をここに置き去りにすることもできなければ、私と蓮見がこの場所でビバークする選択肢もないように思えた。ここは原野だ。私たちの個人装備には、応急救護キットは入っていても、体力を根本から改善させてくれるようなツールも薬品も入っていない。戦闘機の射出座席に同梱されている程度の非常食しかない。長期的な作戦を考慮していなかったからだ。移動するしかない。多少の時間をここで休養したとしても、いずれは動かなければならない。できるだけ早く。原隊に復帰するためにも。
 どれくらいの時間、そうしていただろうか。長い時間ではなかったはずだ。にらみ合いに等しいほどの視線が、私とセムピの間で交わされた。けれど、彼の視線に私は不思議なことにあからさまな敵意を感じることはなかった。いらだちを隠そうともしないイメルの表情にも、感じるほどの敵意はないように思えた。
「……」
 セムピが私から視線を外し、かたわらのイメルに何か言った。私たちの言葉でもなく、北方会議同盟(ルーシ)連邦の言葉でもない、彼らの言葉で。
「……!」
 イメルが鋭く言い返した。彼らの言葉で。
 私は彼らイルワク族の言葉がわからない。椛武戸から大陸沿岸域にかけて広く居住する民。私の故郷の北洋州に先史時代から住む先住民族と共通の祖先と、近い文化と、ほぼ同じ文法体系を持つ言語を操る彼ら。帝国の文化や言葉とは明らかに違うそれを持った彼ら。北緯五十度の国境線から北側に分布しているが、彼らは北方会議同盟国の国民ではない。人種も文化も何もかもが違う。彼らが私たちに言ったとおり、帝国の人間でも同盟連邦の人間でもなかった。
「……」
 セムピとイメルは数度言葉を交わしていた。セムピは低く、抑揚も抑え、冷静に、あたかも上官が部下に命令を伝えるように。イメルはセムピのそうした言葉一つ一つに反発し、言い返していた。私は言葉を挟まずに、その様子をじっと見た。
作品名:トモの世界 作家名:能勢恭介