トモの世界
彼はどこにいるのか。無事だったのか。
「レツ……」
私は彼の名を思わずつぶやいていた。一度として本人に向けて呼びかけたことのない、彼の名前。烈(レツ)。
「姉さん?」
私はうっすらと目を開く。
「蓮見……」
「大丈夫?」
蓮見の顔が歪んで見えた。
そのとき、私の目に涙があふれていることに気づいた。
泣いている?
なぜ?
目を閉じる。
目じりから涙が流れる。
烈……。
蓮見の残像が、南波の顔にすり替わる。
(姉さん)
誰の声だ?
南波?
私は目を開く。
「入地准尉、」
蓮見がいた。
「南波、少尉は……」
霧が渦巻いている。
空は霧の天蓋に覆われている。乳白色。のっぺりとした風景。
モノトーン。
背中が柔らかい。ベッドに横たわっているようだ。
「入地准尉、姉さん」
蓮見が顔を寄せてくる。頬をたたかれた。
「蓮見、」
「大丈夫か……」
意識がようやく焦点を結びだす。
私は茂みに絡めとられていた半身を起こした。右手をついたが、ひじがあっけなく崩れた。再び私は茂みに倒れこむ。顔面からワタスゲに突っ込んだ。だが、起き上がることができない。このまま眠ってしまいたかった。
だが腕を引かれた。
「姉さん、起きて」
蓮見の声だ。遠くから聞こえるようで、すぐ近くから聞こえるようで、とにかく私は眠かった。
「ああ……」
「姉さん、銃を取って」
銃?
「警戒!」
その声に、私の内なるスイッチが入った。自分の力ではない何らかの動力ではね起こされるように、私は半身を立て直した。ほとんど無意識に4726自動小銃を手繰り寄せていた。
「蓮見、どうした」
蓮見はすでに銃を構えようとしていた。道の先へ照準。姿勢を変えようとして、蓮見が小さくうめいた。破れたアンダースーツの下の腿が見えた。肌は白い。が、血と泥で汚れていた。
「誰かいる」
蓮見は光学照準器を覗いて、小さく、しかし鋭く言った。
私も同じ姿勢を作り、銃を構えた。
光学照準器に目を凝らす。
霧。
道。
草。
霧。
……見えた。
「蓮見、確認した」
「姉さん、ようやく元に戻った」
蓮見の声は掠れている。私は自分自身を叱咤した。負傷しているのは蓮見だ。私はどこにも被弾していないし、けがもしていない。ただ疲労しているだけなのだ。
「二人、いる」
蓮見がつぶやく。つぶやきながら、蓮見はニーリングから伏せ撃ちに移行する。私は彼女をバックアップするように、半身を茂みに沈め、ニーリングを維持した。
霧。
その向こうに、人影。
二人。
歩いてくる。
距離は……四〇〇メートルほどか。レティクルに捉え、身体が揺れないように力を抜く。人差し指は用心金(トリガーガード)の外だ。親指はすでにセレクターを安全位置(セーフティ)から単発(セミオート)へ切り替えている。私の身体は夢から醒めたように冴えわたっていた。自動機械のようだ。戦闘マシン。事実そうなのだ。そうなるよう、訓練された。
「銃を持ってる」
蓮見。
「わかってる」
人影はふたつ、ゆっくりとした足取りでこちらへ向かっていた。
二人とも、銃身の長いライフルを携えているようだ。
「敵か」
「味方でなければね」
蓮見が大きく息を吐く。まただ、蓮見。射撃姿勢はそのままだが、撃つな。
照準器の中の人影は、周囲を警戒するそぶりもなく、まっすぐに道を進んでくる。時速四キロ。その程度だ。装備は……ライフルに、霧が濃くよくわからない。CIDSが生きていればと思う。
「姉さん、……兵士じゃない」
人影が大きくなるにつれ、彼ら、あるいは彼女らの風体が明らかになってくる。
まず、兵士にしては周囲を警戒していない。まるで自軍の駐屯地を……宿営地ではなく……歩くような。そして、自動小銃にしては銃身がやけに長い。あれでは、自動小銃というより、狙撃銃だ。しかし、狙撃兵独特の雰囲気はまったく感じられなかった。装備も奇妙だ。ヘルメットをかぶっていない。髪型がわかる。向かって右手の男は……もう性別がわかった……癖のあるやや長髪気味の頭で、左の男は、頭に何かを巻いている。それは、帽子の類ではなく、このあたりの民族によく見られるような、手織りの布のような……そうだ、彼らがまとっているのは、軍用のフィールドジャケットでもポンチョでもなんでもない。厚手のフェルトのような素材の上下だ。
「あれは……そうだ、兵士じゃない」
私は立ち上がった。銃を構えたままだ。
「おい!」
久しぶりに大きな声を出した気がした。それでも裏返らずに腹から発声できたことに安堵する。
人影は歩みを止めた。そしてお互いの顔を見合わせるようにすると、こちらに向き直る。
「動くな!」
蓮見も立ち上がった。わずかによろけた。視界の端で蓮見をほんのわずかに気遣い、しかし照準は前方に二人につけたまま、私は続けた。
「そのまま動くな」
私の声は霧の中に吸い込まれるようにあたりには響かない。だが彼らには届いている。
「……ふざけるなよ!」
野太い声が返ってきた。北方会議同盟連邦(ルーシ)の訛りが強い。帝国の言葉ではなく、同盟の言葉で呼びかけるべきだったか。だが私は語学に堪能ではない。
叫んだのは、向かって左の、頭に布を巻いた男。素早く右の男にレティクルを合わせるが、右側のくせ毛の男はわずかに笑ったように表情を変えると、負い紐に右手の親指をひっかけて、こちらへ再び歩き出した。
「止まれ!」
私は叫んだ。
「いい加減にするんだな」
左の男も大股で歩きだした。距離、三百メートルを割る。
「帝国の兵隊さんよ、ここじゃそんな態度は通用しない」
左の男が肩にかけていたライフルを持ち替えた。
「止めろ! 銃を捨てろ」
怒鳴ったのは蓮見だった。
「おいおい、二人ともお嬢ちゃんか」
くせ毛が笑った。表情ははっきりとわかる。顔の下半分は濃いひげに覆われていた。年齢が読めない。堀の深い顔立ちはしかし、はるか東の国の聖戦士(ムジャヒディン)を思わせる。
二人は蓮見の制止もかかわらず、大股で歩いてくる。蓮見が人差し指を引き金にかけた。
「お嬢ちゃん、よしな」
くせ毛が笑った。蓮見の動作が見えたようだ。まだ彼我の距離は百メートルを割っていない。たいした視力だと思った。
「お譲さんたち、銃は人に向けるものじゃない。とくに初対面の人間には。あんたらも人間だろう?」
左の男が言う。低いがよく通る声だ。「人間」という単語を強調していた。
「武器を、銃を置け」
私が言う。
「あんたらが銃を下ろしたらな」
二人とも笑っていた。
威圧感があった。
私はその姿に懐かしさを覚えていた。
彼らは猟師だ。
私は構えた銃をローレディまで下げた。
「姉さん、」
「蓮見、下ろせ」
「でも、」
「先任は私だ。従え」
言うと、蓮見はゆっくりと火線を前方の二人から外した。人差し指も用心金の外に戻す。
「いい子だな」
左の男が言う。歩みは止まらない。私たちは静止したままだったから、追い詰められているような気分になる。
「蓮見、弾倉を抜け」
私は言いながら、自分の銃から弾倉を外し、コッキングレバーを引いて、薬室から弾を抜いた。
「姉さん?」