トモの世界
「都野崎で取材した。学生の頃。空軍のパイロットさ。北方戦役で撃墜されたパイロットに私はインタビューしたんだ。お前が好きな極限状態を経験したパイロットが、夢とも現実ともつかない奇妙な場所に迷い込んだっていう、そういう話を聞いたんだ」
「それが、いま私たちがいる場所ってこと? 」
「ずばりここかどうかは知らない。たぶん違うだろう。こういう場所は、椛武戸にはいくらでもあるさ。……でも、あのパイロットが私に話してくれた風景は、こんなだったよ」
「撃墜された?」
「パラシュートで脱出したのさ。そしてあのパイロットは、帰ってきた。だから、」
だから、私は思う。彼は現実世界へ帰った。だからここは冥府の入り口などではない。友軍と敵の最前線が入り乱れる激戦地なのだ。結果的に未帰還者が多いだけの話。この上空で撃墜されるパイロットが多いだけだ。脱出(ベイルアウト)できても気候的に辺りは霧が発生することが多く、だから自位を見失い、迷った挙句に遭難するのだ。海に墜ちるよりはいい。初夏のシェルコヴニコフ海は冷たい。だが、陸上も夜は冷え込む。まともな装備なしに長時間を過ごすには厳しい土地だ。
「南へ行こう、蓮見。国境を超えるんだ。原隊へ復帰するんだ。南波が待ってる」
私は自分の声が震えそうになるのを懸命にこらえていた。私の中に渦巻いていたのは、実は恐怖だった。眼前に広がるのは、学生だった私にあの元空軍パイロットが語った冥府の入口そのまま風景だ。いわば、現世と彼岸の境目だ。死の淵を象徴する世界といってもいい。そこにいま私はいるのだ。その事実に恐怖していた。いくら口ではここが冥府の入口などではないとうそぶいたところで、自分の裡に巣くっている印象を即座にごまかすことは難しかった。
一面の白にまだらな影を落としているのは、雲だ。風が吹く。太陽が隠れる。嗅覚に強く意識を集中させると、かすかに海の匂いが感じられた。海岸線から大きく離れているわけではなさそうだ。このまま南へ行くのだ。蓮見を引くようにして私は進む。
初夏の北洋州。
私の鼻腔に、ふと、なんの脈略もなく、ライラックの香りがよぎる。私はあわてて周囲を見る。ライラックの木などなかった。当たり前だった。周囲に背の高い木など一本も生えていない。それにライラックの花の季節にはまだ早い。椛武戸は桜が散ったばかりのはずだ。ライラックの季節まではまだひと月以上もあるだろう。私の脳裏によぎった光景は、椛武戸の風景ではなかった。駐屯地のある高泊の街でもなく、敵の攻撃と友軍の近接航空支援で廃墟と化した縫高町でもない。
故郷の柚辺尾だ。
もともとは防火線として作られた道路幅百メートルを誇る公園通り。
公園通りの象徴である高さ百五十メートルの電波塔に、旧市街の石造りの建物……北洋州旧本庁舎。
それらの追憶の中でニセアカシアの花が散り、そこかしこで芳香を漂わせるのは紫色のライラックだ。
私は疲れている。そう思った。ワタスゲの原を見て、私は初夏の光景を連想していたのだ。それは戦士の思考ではなかった。柚辺尾の街のフラッシュバックには郷愁すら感じた。
蓮見にとっては、この北洋州は外国も同じのはずだと思う。彼女は歴史ある内地の出身だ。出水音は彼女の説明にもあったとおりの高原盆地に古くから拓けた城下町だ。本土には、椛武戸や北洋州本島のような高緯度地域独特の、一種清涼飲料水のような雰囲気はない。都野崎がそうだった。くすんだような色の建物がひしめき、雑然としていた。丹野美春が親しんだ京の街もそうだろう。黒光りする瓦屋根と白壁、建立されて千年の年月を数える寺院、仏閣、社。蓮見や丹野美春にとって、私が生まれ育った北洋州や、この椛武戸の地は論を待たずして外地であり、戦場は文字通り地続きではなかったのだ。だが私には違った。
眼前のワタスゲの原は私にとって確たるイメージをともなった夢の世界だったが、それは悪夢に近いものだった。私はここから離れる必要性を強く感じていた。
「蓮見、大丈夫か」
ここで休息は取りたくなかった。私は本能的にこの場所を忌避しつつあった。このままからめ捕られて、ワタスゲの原に埋没してしまうのではないかという直観的な恐怖感を抱いた。
「大丈夫」
「行くぞ、……太陽が隠れた」
強い口調で私は言ったが、蓮見に対してというより、自分自身を鼓舞するためといってよかった。
一陣の風が吹きつけると、眩いばかりだった太陽も、一枚板のようだった青空も、瞬間的に翳っていた。青空で真っ白く綿のように漂っていた雲は次第に集合し流れて、いまは空全体の九割がたを覆い始めていた。天候の変化が激しいのもこの地方独特だ。太陽が隠れると、とたんに気温が下がる。アンダースーツが機能していても寒さを感じた。と同時に、抱えるようにして支える蓮見の体温も感じられた。人の認識能力の不安定さを思い知る。太陽の暖かさを全身に感じた先ほどは、触れていた蓮見の手の体温など意識しなかったからだ。
そう、意識しなければいい。ここは戦場なのだ。天国……冥府の入口や、まして夢の世界などではない。そもそも私は覚醒し続けており、眠ってなどいなかった。
霧がまた漂いはじめていた。
ワタスゲの色が、乳白色の霧の中に溶けていく。
空を見上げると、雲の凹凸がぼんやりとにじんでいく。あたりを再び霧が支配しつつあった。私は4726自動小銃の光学照準器に、自位を任意で入力することによる簡易ナビゲーション機能があったことを思い出し、先ほどまでの晴天時にそれを設定すればよかったと悔いた。が、どうせその機能もEMPに焼かれているのだと思い、無駄な絶望を味わう必要もないと考えなおす。間もなくあたりは霧が濃密に巻いていた。機械的補助がなければ、人間の感覚が精密さに欠ける点もまったく奇妙に感じる。それとも私が単に機械に頼りすぎただけなのか。動物たちは霧に巻かれても自位をロストしたりするだろうか。人間が獲得した高度な思考能力が余計だということだろうか。もっと単純に考えればよいのか。
「姉さん」
蓮見の声。私よりかすれていない。
「どうした」
「道があるよ」
「なに、」
私が問い返すと、蓮見は左手をそっと挙げ、指した。
ワタスゲと、名前もわからない草が茂っている。蓮見が指す先に、それらの密度が不自然に薄い場所が見えた。いや、道ではなく細い水の流れではないか。思ったが、近づくとそれはしっかりとした意思を持った誰かが通るにふさわしくまっすぐに続いている。草は寝ているわけではなく、土が見えていた。しかも踏みしめられて固い。
「道だ」
私はつぶやく。誰にたいするでもなく、そっと。
道は霧の中からあらわれて、霧の中に続いている。
細く、まっすぐに。
森の中のけもの道によく似ていると思ったが、しかしこの道には迷いがなかった。何者かの意思が通っていると感じられる一本の道だった。
蓮見が私を向いた。
目がしっかりと私を見ていた。
私は二度、三度と小刻みにうなずいた。
行こう。
私たちは、道に足を踏み入れ、ほんのわずかに周囲を警戒し、そして、霧の向こうへ続く意思に、従うことにした。
一時間。