トモの世界
「音声化された言語を持たない部族の『言葉』は、そういう感じだろう。絵そのものが意味を持つ言葉なんだ。文字列ではなく。もしかすると、現実の出水音を私が知っていて、お前の出水音時代も知っていて、そのうえでお前が見た夢を、たとえば絵に描いて見せられたら、違和感も感じるかもしれない」
「うん……」
「……南波とはそういう話をしているのさ。これでいいか」
「よくわからないよ、姉さんの話は」
「よくわからない? わからないからいいのさ。真剣に考えないからな。索敵の邪魔にもならない。それとも、蓮見優羽(ゆは)の人生相談室でも始めてくれるか」
「やめてよ」
「いいさ。いずれ、聞いてやる。なぜお前がそんなかわいらしい見た目をしていながら、こんな世界に飛び込んできたのかも」
「それは姉さんだって変らない。出水音で姉さんに出会ったとしたら、誰も姉さんを陸軍准尉だと思わないよ。……図書館司書かなんかやってそうだ」
「なんだそりゃ。私とお前はぜんぜん違うさ」
「違うだろうか」
「お前と私の共通点は、いる場所が同じで、やってる仕事が同じなだけだ。抱えているものは全く違う。私と蓮見だけじゃない。南波も違う。桐生も違う。……みんな違うさ。同じなのは、いる場所とやってる仕事だけだ」
「やってる仕事も違う。階級は同じだけど、私には姉さんのように銃は撃てない」
「……根本は同じさ。戦うのが好きなんだ。私もお前も、南波少尉も」
「それは否定しないよ」
「じゃあ同じだな、みんな」
「さっきは、私と姉さんは全然違うって言ったじゃないか。……姉さんの話はよくわからない」
「だから、」
霧が晴れてきていた。
「よくわからないのがいいのさ」
空が青みを増してきていた。
晴れている。
いや、晴れる。
霧が、散っていく。
「蓮見、霧が晴れる。……警戒」
いままで私たちの進路を阻んでいた霧。しかし、私たちの姿を隠していたのも霧だ。霧が晴れれば、視程は一気に数十倍になる。丘陵の稜線に敵の地上部隊が展開していたら、それで終わりだ。
風が吹く。
霧が一気に流れていく。私は伏せた。初夏の、萌える草原(くさはら)に。
地面はやわらかかった。土。膿んでいない土だ。
視界のところどころに、白い花弁が揺れていた。
白い花弁が。
霧と同化していままで気づかなかった、それはワタスゲの花だった。
十三、
世界が二分されている。
青と、白だ。
あたりは平坦でほとんど起伏がなかった。そこを、霧が風に乗って流れていく。私たちはそのただ中にいた。
ワタスゲだ。
初夏、北洋州から椛武戸にかけての低湿地などに群生する白い花。
それは夢の光景に近かった。私自身が見た夢ではなく、北方戦役で空から墜ちたパイロットたちが見た夢と同じ光景だ。
霧が晴れていく。
私は立ち上がっていた。狙撃の心配も、敵機甲部隊への警戒も、いっさいを忘れていた。
いつの間にか、私と蓮見は、広大な草原に足を踏み入れていた。あたりに樹木らしい樹木もなく、ワタスゲのほかに見えるのは、塗り込めたように青い空と、漂う雲。そして擱座した戦車。
戦車の残骸が、一面のワタスゲの原に点在していた。昨夜の戦闘で撃破された車両だけではなかった。むしろ、新しい車体はほとんど見えない。みな、錆をまとい、車体を隠さんばかりに生長しつつある草に囲まれている。風が吹くと、水面のようにワタスゲの波が広がった。高山で見るように、空に漂う雲は目にまぶしいほどに白く、空はパレットから溶いてそのまま塗ったかのように青かった。ワタスゲだけならば、北洋州出身の私にとってめずらしいものではなかったが、それにしても規模が大きかった。そして、生き物の死骸のようにうずくまる戦車の残骸の姿だけが異様で、まるで気の狂った反戦画家が描いた巨大な絵のように見える。ようするに現実感に乏しい風景に私たちは迷い込んでいたのだ。ああ、空軍のパイロットたちのあいだで話されている場所だ。私は思いいたる。ここが、パイロットたちが撃墜されて迷い込む冥府の入口なのだ。私も蓮見も、歩を止めていた。
「蓮見……」
口から出た私の声はかすれていた。
「姉さん、」
見ると蓮見の顔はひどく汚れていた。硝煙、泥、汗。私も同じようなものだろう。ワタスゲが陽を照り返して、戦闘の汚れをさらに際立たせていた。そして、私たちがまとう最新の戦闘装備が明らかに場違いだった。そうだ、夢の都野崎に軍の装備のまま迷い込んだときの違和感のようだ。
「ここは……これは……」
蓮見がつぶやいた。
「わからない」
「敵は……」
「いない」
私も蓮見も、4726自動小銃を据銃することすら忘れていた。風の音がする。風がワタスゲを揺らし、さざ波のような音を立てていた。
「パイロットの夢の話、したことがあったか、」
私は言う。
「パイロットの夢? さっきの続き?」
「いや、北方戦役で、行方不明になったパイロットたちの話だ」
「知らない」
「ここなんだ……」
「なにが、」
「撃ち落とされたパイロットたちが迷い込んだ、『あっちの世界』の入り口だ」
「あっちの世界、」
「あっちの世界、だ」
私は歩を進めた。第一歩。じゅうたんを踏んだかのようだ。クッションのように足元はやわらかい。歩くたびに綿毛が舞う。ワタスゲを踏まずに歩くことはできなかった。
「それって、天国……ってこと」
私の言葉を受けて、蓮見はそのままの言葉を口にした。
「違う、私たちはまだ生きている」
「まだ?」
「……これからもだ」
しかし私は眼前の光景がにわかに信じがたかった。先ほどまで私たちは、激しい戦闘のあとを歩いていた。まだ煙がくすぶる生々しい戦場だった。CIDSもなく、霧に巻かれ、自位を完全に失った。それでも進むしかなかった。
海の音が聞こえなくなったのはどのあたりからだったろうか。
燃料の臭いが薄れたのはどのあたりからだったろうか。
「行こう……、蓮見」
私は振り向き、蓮見を呼ぶ。
蓮見は私が聞いた「パイロットの夢」を知らない。
もちろん、私も「パイロットの夢」を直接見たわけではない。伝聞しただけだ。が、私が学生時代、都野崎で出会ったパイロットの語るワタスゲの原のイメージは、私の裡に確かな姿(イメージ)を作り上げていた。私がこの戦域を目指したこと……軍に入ったことの主たる目的の一つは、この風景を探すことだったのだ。夢の世界が現実に存在するのならば、それを見てみたい。
「夢ではないんだ」
私は言い聞かせるように、はっきりと声に出した。
「これが夢なら、果てしない悪夢だ」
風の音。
私の声。
「蓮見、」
私に促され、蓮見はゆっくりと歩きだす。負傷した腿がつらそうだ。私は数歩戻り、彼女の傍らで支えるように手を貸す。
「国境へ、行かなくちゃ」
太陽の位置を確かめた。
南はこちらだ。天測をする必要もない。いや、正確な緯度を割り出せれば、国境線までの距離も把握できたろう。が、もう距離など私はどうでもよかった。
「私が会ったあのパイロットは、帰還したんだよ」
「パイロット?」