トモの世界
霧に巻かれて、視線の先のシルエットが、ヒグマのそれに見えた。
けれど、生き物の匂いはしなかった。
軽油が燃えた臭いが漂っているだけだった。
私は、「武器」と呼べるものはいま二種類しか所持していない。ヘッツァー4726自動小銃と、メルクア・ポラリスMG-7拳銃。4726自動小銃は、柚辺尾で祖父と山野でシカを追いまわしていた時分、使っていたライフルと同じ口径。当時使用していた弾薬は三〇−〇六弾で、軍の制式弾薬はそれと比べるとやや弾頭が軽いが、それでも五.五六ミリ口径の4716自動小銃よりストッピングパワーに優れ、有効射程も長い。ざっと三倍近く威力が大きいのだ。五.五六ミリ弾はけがをさせるための銃弾だが、七.六二ミリライフル弾は、殺すための銃弾だ。メルクア・ポラリスMG-7拳銃は、一般的な九ミリ口径。弾倉には十五発籠められ、反動もさほど大きくなく、命中精度も貫通力も高い。
が、それは人間相手に考えた場合だ。戦車と対峙するとした場合、自動小銃と拳銃だけでは、無力と呼んで差し支えない。私たちは手榴弾も携行していないのだ。なんとか知恵と勇気を振り絞って戦うにしても、重機関銃と同じ、一二.七ミリ……五〇口径以上の対物(アンチマテリアル)ライフル、できれば対戦車ロケットか無反動砲が必須だ。それでも生身の歩兵が戦車と戦うこと自体が自殺行為であるのに変わりはない。攻撃ヘリコプターの対戦車ミサイルか、支援戦闘機などによる空からの攻撃以外は「自殺行為」の一言で片付けられる。そして眼前には、角ばったシルエット。戦車砲もはっきりと見えるだけの距離に近づいていた。だが、砲身は力なく地面を向いてうなだれている。
油圧が抜けている……?
相変わらずエンジン音もなく、あたりは静かなままだった。まるで書き割りの絵だ。
私は銃を構えていた。
戦車クルーが降車して待ち伏せていないとも限らないからだ。私は這うようにして慎重に接近する。光学照準器を覗く右目で車両を補足し、左目にも意識を振り分け、周囲をチェックする。
潜伏している敵兵士の姿は、どうやらないようだ。
ただ、ディーゼルエンジン特有の、軽油が燃えた臭いがした。
廃墟。
まず私の頭に浮かんだ言葉はそれだった。目の前の戦車の群れは、すべてその役目を強制的に終わらせられていたのだ。
「蓮見!」
立ち上がり、私は彼女を呼ぶ。
それでも私は据銃したまま、周囲を警戒し続ける。
霧が渦巻き、燃料の残滓がくすぶる臭いが立ち込める。不快な臭いだった。獣を斃したとき、あたりに漂う血の匂いや、獣そのものが発する生き物の匂いとは決定的に違う。生理的な嫌悪感をもよおす臭い。……かすかに動物が焼けた臭いまでする。その動物がなんであるかは、想像する必要もない。その姿かたちを脳裏に焦点するのはたやすい。
「姉さん……」
しばらくして蓮見がやってくる。足を引きずるようにして。それを私に悟られまいとしながら、けなげに。
「蓮見、……がらくただ」
「航空攻撃?」
蓮見も銃を構えながら接近する。小柄な蓮見の身体に大柄な4726自動小銃はアンバランスに見える。少女に武器は似合わない。そう思ったのは作戦行動中初めてのことだった。
「九七式だ。第七二戦車連隊……」
砲塔に所属部隊を示すマーキング。友軍だ。
「アウトレンジされたってこと?」
「EMPで目つぶしされて、一方的にって感じだな」
「そんな……戦車は対EMP防御をしてるはずだよね」
「私たちのCIDSがどうなった? そういうことだよ。特定の機器を焼けるような強い指向性でも持っていたのかも」
「私たちのCIDSや戦車をやっつけて、自分たちの装備は影響なしなんて、そんなことできる?」
「できるさ。病理がわかればワクチンを作れる。あいつらは、しゃべらなくてもしゃべることができる軍隊だぞ。……もう驚かないさ」
草が露で濡れている。
燃料や火薬がくすぶる悪臭がなければ、初夏の朝そのものだ。それにしても霧が濃い。自位を見失いそうだ。霧が濃すぎて太陽の位置も分からない。
「何両見える」
私は蓮見に問う。
「さあ……、視程が悪くて……五、六……」
「もっとだな。中隊規模だ。エンジン音は全く聞こえない……車内は見ないほうがいいだろうな。残念だ」
砲塔がまともに車体の上に載っている車両のほうが少ない。対戦車ミサイルで狙い撃ちにされた戦車は、ほぼ例外なく砲塔を噴き上げ、活動を停止する。現代の戦車は気密性が恐ろしく高い。核(N)兵器や生物化学(BC)兵器に対する防御性能も持ち合わせているからだ。空調は戦闘用コンピュータの冷却用だけでなく、乗員保護用としても高性能なタイプが搭載されている。逆にいえば缶詰のようなものだ。高エネルギーの弾体を命中させれば、難なく爆発してくれる。致命弾を受ければ乗員は全滅だ。車外に乗員が這い出た跡が見られないのはそうした理由だろう。脱出しやすいはずのドライバーも脱出した形跡がない。
「EMPで擱座したところに、敵弾命中、そんなところだろうな……」
蓮見は黙っていた。
戦線がどうなったのか。
洋上の艦隊はどうなったのか。
地上部隊がこのありさまだ。
戦線は相当に後退しているのだろう。
「蓮見」
「なに」
「行こう。歩くしかない」
「うん」
「行けるか。行けるよな」
「置いて行って、というのは、ダメなんだろうね」
「ダメだな」
私は彼女に向き直る。
「これ以上センサーの数を減らしたくない」
「うん」
「話し相手も必要だ」
「話し相手?」
「戦場では、誰も一人になると精神的バランスを欠いてしまうからな」
「姉さんでも?」
「私は一人で行動したことなんてない」
「意外だ……故郷の山でも?」
「それは、猟の話をしているのか?」
「うん」
「私は、……一人で山に入ったことはない」
「猟師(ハンター)は一匹狼だと思っていた」
「そういう猟師もいる。けれど私は違った。それに蓮見、そもそもオオカミは一匹で狩りはしないぞ」
「そうなの? ……准尉のお祖父さんは一人で猟をしていたんでしょ」
「……私の祖父は、生粋の猟師じゃなかった。私と同じ、陸軍の軍人だった。狙撃兵(スナイパー)だよ。狙撃兵には観測手(スポッター)がかならずくっついてまわるだろう。私は狙撃兵に猟を教わったってことさ。だからいつも観測手と一緒に山に入ったさ」
「じゃあ、いまは私が観測手をしなきゃダメだね」
私は戦車から離れた。歩き始める。
「違うな」
蓮見がついてくる。私は蓮見に向きなおって言った。
「蓮見、私は狙撃手じゃない」
「じゃあ?」
蓮見の視線を受けて、私は踵を返す。
「ただの戦士だよ」
平原には濃い霧が立ち込めている。
冥府の入り口のような。
私は異世界を信じない。
私は天国も信じない。
だから地獄も信じない。
人の魂も信じない。
人はいずれ死ぬ。機能を停止する。それだけだ。人が死ぬと、脳が機能を停止し、思考回路も感情も自我もすべてが失われる。自分を自分だと認識していた存在は消える。消え去り、どこへも行かない。
私はあたりを見渡す。
戦車。
戦車、戦車、戦車。
鉄の棺。