トモの世界
波の音がかすかに聞こえている。おそらく断崖があるのだ。このあたりの地形はそうなっている。波が砕ける音。草が風に応える音とは違う、水の音。波が砕け散り、それが風に乗り、空気に混じり、潮の匂いになる。風はさほど強くない。まだガスタービン燃料の臭いが混じる。艦隊はどうなったのか。情報を遮断された私たちは、五感をフル稼働させて周囲を警戒するが、見えない場所、聞こえない遠地の状況など、わかるはずもなかった。身体はあらゆる電波を浴びてはいるが、受信能力がない。受信してもそれをデコードする機能もない。CIDSは沈黙したままで、電源が入らないままだった。物理的な回路故障ならば、あるいは分解整備すれば機能を回復するかもしれなかった。が、いまは歩くのが最優先だった。一刻も早く、しかし体力を温存したまま、南へ逃れるのだ。
霧が渦巻いていた。
あたりは白い。
草は初夏に萌えているはずだったが、色を失っていた。モノトーンの世界だ。
道は相変わらずなかった。
私たちはしばらく言葉を交わさずに歩いた。
二人の歩く音と、呼吸の音だけが聞こえた。
昨夜の戦闘が、祭りのように思えた。そう考える自分を不謹慎に思ったが、結局のところ、蓮見も私も、好んで戦場に身を置いている。祭りのようなものだった。私たちは職業軍人だ。仕事として戦場で戦うことを選んだ人種だ。いやいや作戦行動をしているわけではない。好きでやっているのだ。任務だから、ではない。好んで部隊に身体を預けているのだ。丹野美春が知ったら、異常だと眉をひそめるだろうか。南沢教授は、私と口を利いてくれるだろうか。
祖父は。
祖父はなんと言うだろうか。
父や、母や、二人の姉はどうしているだろうか。
ふと柚辺尾の街の、何気ない通りや川や街路樹が浮かんだ。そしてすぐに消えた。意識が激しく疲労していると思った。作戦行動中に家族のことを考えたことはなかった。柚辺尾の街を思い出したことなどなかった。
危ないと思った。
意識が作戦から分離している。
私は4726自動小銃のグリップを握りなおした。伸ばしたままの人差し指が硬直していた。何度か手のひらを握ったり開いたりを繰り返し、意思の通わなくなりつつあった自分の指を取り戻す。そんな動作を繰り返していたとき、蓮見が私を呼んでいることに気付いた。
「姉さん、」
うかつだった。先を行く蓮見が私を呼ぶ声に、一瞬反応が遅れたからだ。
「どうした」
蓮見は立ち止まっている。
「警戒、」
蓮見が言葉と同時に茂みに伏せた。私は考えるよりも早くその言葉に従った。
「蓮見、どうした」
「あれ」
蓮見は伏せ撃ちの姿勢で据銃している。彼女の火線(ファイアライン)の先へ、私も銃口を向ける。光学照準器を覗く。
「蓮見、そのまま動くな」
低く。レティクルの向こうには、そこだけはっきりと色の違う何かがあった。
樹木でもなく、岩石でもなく、動物でもない。
鋭角的なシルエット。
人工物。
あたりに道はない。集落であるはずがなかった。消去法でその形が意味するものを考える。
音は聞こえなかった。
「戦車……」
砲塔、砲身、履帯、サイドスカート。
見慣れた形だ。
有翼撤甲(APFSDS)弾の普及で、装甲車両の形状は、避弾経始をまるで無視した角ばったものになっている。まるで図工の時間に作った紙細工のように。あたかも収斂進化の結果であるといわんばかりに、その形状は敵味方関係なく似たものになっており、目視での攻撃は往々にして同士討ちを惹起した。機械的な敵味方識別装置(IFF)をなにもかもを失っている私たちは、味方から撃たれる可能性と、味方を撃つ可能性、両方をしっかりと保持している状態だ。
「どっちだ」
私は蓮見に問うてみる。味方の戦車か、あるいは敵か。
「この距離では、」
私と蓮見の視力も似たようなものだ。だいたい極端な視力差は現代社会でさほど見られなくなっている。それを医療の進歩と呼ぶか、画一化と呼ぶか、私にはわからない。社会が求める最低限の身体能力は、いまは国家的医療制度と技術が保障してくれる。それが結果的に社会保障費の圧縮のつながることに政府も国民も気づいたからだ。どんな病も治る時代から、どんな病にもかからない時代に、私たちの世界はシフトしつつあるのだ。けがだけはどうしようもないが。
「蓮見、エンジン音が聞こえないな」
「でも接近したくない」
「斥候はいるか、」
「そんなのいなかった」
「同感だ」
「迂回して行こう、姉さん」
私たちはできる限り姿勢を下げ、移動を……脅威からの迂回を開始した。が、もし向こうが戦闘能力を維持しているのであれば、センサーが私たち二人を見逃しているだろうか。確実に捕捉されているだろう。それにしてもエンジン音が全く聞こえないのはどういうわけか。風は強くない。どれほど排気音を消音化したとしても、戦車のエンジンは強力であり、そしてエンジン音を消音化する必要性は、戦車の性能にとって優先順位は低い。補助動力装置(APU)が作動しているのだろうか。装甲車両、とりわけ主力戦車のエンジンは大排気量であるが故、燃費が良くない。エンジンをかけっぱなしでは、貴重な燃料をひたすら消費してしまうため、航空機のように補助動力装置を備えている機種が増えているのだ。だが、APUの動作音も聞こえない。すると、昨夜の電磁衝撃波(EMP)で擱座しているのか。ならば味方部隊の可能性が高い。もし擱座しているのだとしても、友軍が展開しているのであれば、私たちの逃避行も終了になる。
「姉さん、警戒、二時、目標多数!」
匍匐するように前進していた私たちはその場にとどまる。
光学照準器で索敵。いまや文明の利器と呼べるのは、EMPから何の影響もこうむらないこの光学レンズと鏡体の構成品のみとなってしまった。
「一、……五、六……」
蓮見が口の中でつぶやく。黒っぽいシルエットは、ある程度の間隔を置いて数両点在している。だがいずれもエンジン音が聞こえず、人影も見えず、匂いもしなかった。
いや、臭いならあった。
軽油が燃えた臭い。
ディーゼルエンジン特有の臭いだ。だが、新鮮なそれではない。漂っているだけだ。
「蓮見、おかしい。……待て」
「わかってる。昨日のあれを思ったら、動きたくない」
眼前のこれが、壮大な罠ではないと、私自身断言できなかった。あの保養所を襲撃する直前、私たちはそれが罠だと疑いこそすれ、確信はしなかった。
「蓮見、……走れない……な」
「姉さん?」
「見てくる」
「そんな、危険すぎるって」
「お前が来てもリスクが増えるだけだ。ついてこなくていい」
蓮見の足は回復していない。むしろこの行軍で悪化している。私たちの移動速度は明らかに通常の半分程度まで落ちていた。
「バックアップ、頼んだぞ」
「わかった」
「何かあったら、叫ぶからな。耳を澄ましていろよ」
「聞こえないはずないよ」
「頼んだ」
蓮見が親指を立てる。
私は、あらためて4726自動小銃のグリップを握りなおす。一度弾倉を外し、そして装填する。残弾確認。
茂みを行く。。
私は、不意に、祖父、ユーリと歩いた山野の光景を取り戻す。
まるで猟だ。