トモの世界
「ずっと、長い夢を見ているような、……いや、この世界が、実は夢で、私は醒めるのを待っているんじゃないかって、そう考えたこともある」
「……」
「目が覚めたら、どこか知らない……今の私は知らない場所の布団の中にいて、別の世界が広がっているんじゃないかって、そういうふうにね」
本気で考えたことはなかった。誰しも一度は試みる思考ゲームだ。もっとも、これが行き過ぎると精神疾患扱いになってしまうようだが。自分が作り出した幻想世界に取り込まれて、二度と抜け出すことができなくなってしまう。
「トモは、この世界が嫌いなの」
「じゃあミハルはどうなんだ。この世界が、帝国が好きか」
「私は、ここしか知らない。いえ、私はまだこの世界の半分も知らない。だから、」
彼女の視線が、私を向く。白と黒の境界のはっきりした、子供のような目。澄んだ瞳。そう、ガラス細工のような。いや、ガラス細工と呼ぶには美春に失礼だ。彼女の眼は生きていた。後日嫌というほど触れることになる、たとえばミサイルのシーカーヘッドに組み込まれた高性能レンズとは全く違う。構造は同じレンズだとしても、人の眼はなぜこうも雄弁なのだろう。私の眼はどんな色をしているのだろうか。そのとき、美春の眼を見ながら、私はそう思っていたような気がする。私の視線を受け、きれいな声で美春は答えた。
「私はもっとこの世界を知りたい。いろいろな場所を見てみたい……いろいろな言葉で綴られる世界を、私は見てみたいし読んでみたい」
それがミハルが南沢研究室に向かわせた一つの動機だったと彼女は後に私に言った。世界はただそこにあるだけではなく、世界の住人が世界を定義づけ、様々な言葉で様々な物語を付加して、そうして歴史を作ってきたのだ。ミハルはそうした物語を一つ一つ知りたいのだと、私に話してくれた。
紀元記念公園の池の畔に、いくぶん強めの風が吹いた。
桜の花びらが散った。
風に舞い、吹雪のように見えた。
散った花びらは、無数の波紋を揺らす水面に落ちた。
ビル街の夜景に、桜色の吹雪がちりばめられる。
「きれい……」
ミハルがつぶやく。
世界を描写する言葉。
きれい。
人にはそういう感覚がある。見たものを判断し、形容する言葉。ミサイルのシーカーヘッドは高性能レンズで入力された情報を処理し、破壊すべき目標を的確に選別するだろう。しかし、ミサイルは桜の花びらをきれいだと思わない。そういうアーキテクチャーを持っていない。ミサイルに自我はないからだ。
きれい。
私もそう思った。
風に散る桜の花びらを、夜桜を、私もきれいだと感じていた。
だから。
「きれいだ」
風に散る無数の花びらと、水面に映るビル街の夜景を眺めて、私も口に出した。
言葉は、……第三者に伝わり、そして共感を得て初めて意味をなすものだと、私はミハルの言葉をかみしめながら、思った。
揺り起こされて、私は目覚めた。
眠っていたことに初めて気づいた。
「入地准尉、姉さん」
私は草むらで身体を九の字に折り曲げるようにして横たわっていた。4726自動小銃を抱くようにして。ハーネスの類はすべて外していたが、不自然な体勢で横になっていたからだろう、脇腹や背中のあちこちが痛んだ。
「蓮見、」
私はなにかを振り払うように、頭を振った。そして眠かった。
思い出した。
三十分だけ休ませてほしい、私は蓮見に頼んで、自らの警戒を解いたのだ。
静かだった。ずっと遠くに潮騒が聞こえた。
「あたりの様子は、」
私は言いかけて、息を飲んだ。
空が明るかったからだ。
「つい今……」
蓮見も空を見上げている。時刻的に、まだ夜明けではない。
「高高度核爆発(HANE)……電磁衝撃波(EMP)攻撃か」
私たちが見上げた空には、一面に見事な光のカーテンが舞っていた。オーロラだ。
極地で見られるその現象を、私はまだ実際に見たことはなかった。Iidで見ただけだ。だが、人工的なものなら、風連奪還戦の前後で見た。電子機器類を盲目化するための戦術。小型の戦術核兵器を成層圏以上の高空で爆発させるのだ。大気圏外での核爆発なので音はしない。ただ、核分裂反応に伴う強力な電磁パルスが発生し、地上・上空問わず、電子機器を襲う。私たちのCIDSはじめ、戦闘車両から戦闘機をはじめとする航空機、その他もろもろ、あらゆる電子機器には電磁シールドが施されている。そもそも現在のEMP攻撃用核弾頭は、強い指向性を持たせている。ようするに、特定の電子機器を狙い撃ちにして無力化する技術開発に成功しているのだ。まったく、どこまでこうした技術は進んでいくのか。
「同盟軍の攻撃か……」
味方がEMP攻撃をするとは聞いていなかった。CIDSの戦闘情報にも表示されていない。そうすると、考えるまでもない。二者択一、消去法。この攻撃を行ったのは、われらが愛する敵。北方会議同盟軍だ。
「やってくれる……」
言いながら私はバイザーを下ろした。
「……ブラックアウトしてるんだ、姉さん」
蓮見が信じられないことを言う。
「まさか、」
CIDSは蓮見の言葉どおりブラックアウトしていた。見えるのは、人工のオーロラに照らされた荒涼とした海岸と原野。NAVモードにしていたはずのCIDSには、拠点への距離、方位、現在位置などの情報が表示されていたはずだ。駆動は薄板化された高性能燃料電池を使用する。原理的にこの短期間の作戦でバッテリーが干上がることはありえない。ディスプレイにはなにも表示されていなかった。いくら考えて(・・・)も、サブ窓もなにも開かない。電源が入っていない状態と同じだ。
「再起動できるか……通話は」
蓮見は何も言わず、彼女のCIDSをセットアップ。だが、私の耳には何も聞こえない。彼女がささやいているはずの言葉が聞こえない。
「アウトプット、不可」
「まさか、」
「照準もできないのか」
私は傍らの4726自動小銃を取り上げ、光学サイトを覗いた。レティクル自体はトリチウムを使った自己発光タイプで電源を必要としないが、モードを切り替え、近接航空支援時の目標選別を行うイルミネーターとしての機能には、当然電力がいるし、CIDSとリンクしなければその機能は使えない。だが、そもそもそのモード切替ができない。
「ダメなんだ、」
蓮見も彼女のサイトを覗いて、唖然とした表情で私を向く。
「馬鹿な、対EMPシールドをしてあるはずなのに」
「もう一回再起動しよう」