トモの世界
「夢の中で『これは夢だ』と思わないから、そうしたらそこはもうひとつの現実さ」
だから、
「面白くもなんともない。……ミハルは、どう思っていたんだ、」
「言われちゃったかな」
「どういうこと、」
「楽しいものだと思っていた」
「現実世界から離れて?」
尋ねると、ミハルはうなずく。
「現実だと頭が認識してしまえば、夢も現実も同じだよ」
大切な誰かが死ぬ夢。
自分が死ぬ夢。
目が覚めて、心から夢でよかったと胸をなでおろす瞬間。
もしそういう世界を、あの感覚を知らずに生きてこられたのなら、私は夢を見られないという彼女たち、<PG>の素質をうらやましいと思う。夢の中に広がる世界は『もう一つの現実』であり、夢独特の不条理さも何もかも、それは私自身が眠っているあいだに体験しているもう一つの世界だからだ。脳が勝手に作品化した、起承転結のない物語。
「夢を見てみたいと思うのか、」
私たちは周回路を、公園中心部に広がる池を望む場所まで来ていた。都心に近くありながらも、この公園は木立や土塁に遮られ、驚くほどに都市の喧騒が届いてこない。開園してから一世紀近くを経ているが、当時の都市計画がそのまま生かされている形だ。ただ、木々の向こうにきらきらと明滅する超高層建築の数々が見渡せる景色は、どこかそれこそ夢の中で私が見てきた、架空の街を思わせた。そういえば私は、ときどき夢の中で、都野崎や柚辺尾の街をさまよう。
「見られるものなら、夢を見てみたい」
ミハルはじっと視線を水平に向け、視点は池を囲む桜の木、無数の桜の木、ライトアップされた夜桜に固定されていた。
「私は、」
高層建築のルーフや塔、階層の途中で明滅するのは、赤いランプの航空表示灯。いわゆる衝突防止灯(アンチコリジョンライト)。幾重にも連なる高層建築街に、無数の赤いランプ。そして窓の明かり。窓の明かりの数だけおそらく人がいる。経済活動があり、生活があり、その分もしかすると夢もあるかもしれない。しかし、並んで桜を眺めるミハルのように、夢を見ない人々も少なからず存在するに違いない。丹野美春は自らそうだと積極的に肯定こそしなかったが、自分が生物学的エリートであることを理解し、受け入れているように思えた。
<PG>の人々は、何らかの意思(・・・・・・)が介在して誕生したというのが暗黙の了解事項であり、いわば国家的、生物学的エリートである彼ら、彼女らは素質を生かして、国家中枢の機関や軍の職に就くといわれていた。ミハルもまた、そうした道を歩むのだろうかと、私は無数に並ぶビルを見て考えた。
「私は、夢なんて見たいと思ったことはなかったよ」
ミハルの隣で、私はそっと芝生に腰を下ろし、いう。
「なぜ?」
ミハルは立ったまま。声が遠くなる。ほんのわずかに。
「現実がつらいものだと前提して、」
風が渡る。暖かい風。凶暴さのない風。肌を刺さない風。
「眠ってから、別の現実に放り込まれて、いい気持ちがすると思うか」
私は率直な感想を述べた。そのとおりなのだ。私にとって、就寝中の夢は、必ずしも快いものではなかったからだ。
「トモは、」
声がふっと近くなる。ミハルが私の隣の芝生に腰を下ろした。そのしぐさはやはりどこかに気品を感じられた。彼女に気品を与えた生活環境……少なくとも経済的は永久に困ることもなく、権力も権威も兼ね備えているであろう家柄そのもの……出自を思うと、申し訳ないが私は不快感を覚えずにはいられなかった。彼女が<PG>でなければ、そうした不快感も覚えなかったろう。彼女の生家を訪れてみたいとも思ったかもしれない。
「トモの夢は、いやな夢なの?」
私はほんの少しだけ考える。
いやな夢。
いや。
悪夢。
端的に言うならそれしか言葉が思いつかない。
悪夢だ。
「悪夢」
だから私はそのまま答えた。
「わるい、ゆめ」
ミハルが返す。
「そう。悪い夢だ」
「いい夢は?」
「ミハル、夢なんて、たいがいが悪い夢なんだよ。おそらくね。どんな夢でも」
「どうして?」
言っていいのだろうか。躊躇、というより、逡巡。私の視線が数メートル先に落ちる。その過程で、私の視線はビル街からその夜景を鏡のように映す池を通る。美しいと思った。柚辺尾にはない景色だった。わずかな風に波紋を作る水面と、ライトアップされた桜。人の手で作られた風景。それもいいと思った。管理され、守られた風景だ。北洋州の風景は、ただ野放図に自然が自己主張をし、人はその片隅で営々と生活をする。ひっそりと。人口が増えたとはいえ、柚辺尾の街はやはり人より自然に支配されている。
「現実……いま私たちが話している世界のことを現実だっていうならね……、現実の世界よりも楽しい夢を見たとするだろう、」
ミハルがうなずく。
「けれど目が覚めれば、この世界に帰ってくる。……楽しいか」
「……楽しくない?」
「楽しくないさ。現実世界と夢の世界の落差に打ちのめされるのさ」
「そうかな」
「そうなんだ。……私はね。たとえばミハル、悲しい夢を見たとするよ、」
「うん」
「目が覚める」
「うん」
「現実には悲しい出来事は、『まだ』ないわけだ」
「だったら、いい夢じゃないの?」
「けれど、夢の世界では悲しい体験をしているわけだよ……悪い夢さ」
私が言うと、ミハルはちょっとだけ苦笑した。
「トモ、」
「わかってる」
私も苦笑して見せた。
「結論はね、」
私はずっとひとり考えてきたことを口に出す。
「現実は一つでいいんだ。……なぜ人の脳が夢を見るのか不可解だ。私にとっての現実は、」
私はミハルを向き直り、右手で自分の胸を指す。
「私にとっての現実は、ここだけなんだ。二つも三つも、私には現実はいらないんだ」
ミハルの目が私をまっすぐに見ていた。
彼女の瞳……眼球の向かって右半球には、公園の桜、池、高層建築の明かりが映っていた。ミハルの目は恐ろしく澄んでいる。子供の目のようだと思った。そしてそれは、後々出会う<PG>の瞳に共通した色だということに、しばらくしてから私は気づくのだ。私の目とは違う色。
「それでも、」
ミハルは立ち上がる。すっと。音もなく。
「私は、夢を見られるなら、見てみたい」
「ミハル、それが悪い夢でも見たいのか?」
「ねえ、トモ」
私も立ち上がる。風が吹く。髪が揺れる。
「この世界が、……トモは、この世界が悪い夢だって、そう言ってるように聞こえる」
ミハルの視線はまっすぐ前。私を向いてはいない。
「そうか、そう聞こえたか?」
「違うの?」
丹野美春はまったく邪気のない、気品のある、静かな視線を私に向けていた。遠慮はないが、不必要な気づかいもない。もしかすると、<PG>が先天的に備えている機能の一つなのかもしれない。人心掌握もまた、国家中枢で活躍するためには十分必要な要素だからだ。そうした私の邪推を差し引いても、私は美春の視線がまったく嫌ではなかった。むしろますます私は美春が好きになっていた。その美春の視線を受け止めて、私は少しだけ逡巡し、答えた。
「そうかもしれない」
「なぜ?」