トモの世界
丹野美春は、私と同い年で京の旧家出身で、小柄だが聡明な瞳をした学生だった。知り合ったのは大学の教室でも食堂でもなく、紀元記念公園の高射砲塔の下だった。私は古本屋で名著とされる小説を数冊、市価の十分の一の値段で買い、それらを読むともなくパラパラめくっていた。本を読むのは猟の次に好きだったが、好んで名著といわれるたぐいの分厚い本を読みふけるような習慣も持っていなくて、だから学生になった私は、なんとなく気取ったふりをしていたのだ。高射砲塔を見上げる場所に並んだベンチに座って。私がそのとき読んでいたのは、ペーターゼンという作家が一〇〇年近く前に書いた「青い世界」なるタイトルの小説で、青年期を迎える少年たちの寄宿舎生活を繊細に描いた物語だった。やたらと分厚く、時間を持て余した閑人か学生以外はなかなか読了が難しいといわれている本らしく、柚辺尾で高等学校に通っていた時分から題名とあらすじだけは知っていた本だった。興味はあったが、柚辺尾にいたときは、小説を読むよりも、植物の植生を解説した本や、名のある猟師を描いた物語ばかり読んでいたから、「青い世界」は読んだことがなかった。柚辺尾を離れて初めて触れる気になったのだ。それ以上の動機はなかったように覚えている。もしかすると、学生らしい本を読もうと、そんな気持ちもあったかもしれないが、忘れた。忘れたことにしたい。
丹野美春は春秋用の薄手のコートを着ていた。萌黄色。膝丈の。私は四季というより二季と呼ぶべき寒暖の激しい柚辺尾では用をなしそうにないそのコートが何やら珍しく思えて、高射砲塔を見上げている彼女の姿をしばらく眺めていた。
砲塔の先端には、かつて三五ミリ対空機関砲が据え付けられていたと説明書きにはあったが、いま高射砲そのものはイミテーションに交換され、都市防空は高性能の地対空ミサイルが受け持っていた。だから紀元記念公園をはじめ、都野崎のあちこちに残る高射砲塔は史跡であり、この国が独立を保つにあたっての決意が具現化された遺物に過ぎなかった。月一度には防空訓練が行われているが、私がそれに参加した回数などたかが知れている。防空訓練自体は柚辺尾でも定期的に行われていたし、北方戦域により近い北洋州での訓練は、けが人が出るほどに真に迫っていたから、恒例行事化された都野崎の防空訓練などかったるく感じたのもまた事実だった。
サイレンが鳴り響くと、手近な地下鉄駅の入り口まで駆けていき、その時だけ開けられる分厚い対爆ドアを抜ける。そして、シェルター内に整列されられ、陸軍の担当官の指示に市民はしたがう。もっとも、陸軍に入隊し、帝国の防空体制を学んでからは、いまも月に一度行われている防空訓練にどれだけの意味があるのだろうと疑問を抱く。そもそも都野崎市は、近傍に空軍基地が一か所、海軍航空隊の基地が二か所あり、空軍は八一式要撃戦闘機、海軍は七四式艦上戦闘機を常に配備していて、地対空ミサイルを装備した高射部隊も三か所で空をにらみ続けている。それだけ高密度な防空体制を突くような無鉄砲がそうそう現れるとは思えなかった。だいたい北方戦域からは二千キロ近く隔てられているのだ。大洋の向こうには軍事同盟を結んだ国しかいない。攻めてくる敵そのものがいないのだ。だがあのころの私にそうした軍事的知識など皆無で、高射砲塔が史跡であることも知らなかった。京で育った丹野美春も同じだった。物珍しさから休日の散歩途中、石積みの塔を見かけてふらふらあの場所に歩いてきたのだ。
「空を撃ってどうするのかしら」
丹野美春の第一声だ。私は今も思い出せる。
紀元記念公園は中心部に広がるかなり広い池……公園として造成したのではなく、もともと存在する沼……の近隣に市民が集まる傾向があり、芝生と広葉樹と高射砲塔が点在するあの場所は、どちらかというと不人気スポットだったようだ。ベンチには私だけ、砲塔を見上げるのは彼女だけだった。だから、彼女の言葉が独り言でなければ、私に向けられたものであるのはすぐに分かった。
「撃ってるの、見たことあるのか」
私が答えた。答えるしかなかった。放置してもよかったが、なんとなく答えた。私は今ほどに尖ってはいなかった。精神的に。
「見たことないわ」
「よく空を撃つものだってわかったな」
「書いてあるもの。銘板に」
丹野美春は肩まで伸ばした髪を揺らして私に背を向けた。栗色の髪だった。
「読んだのか」
「読んだわ」
私はベンチを離れて、彼女に歩み寄った。間近で見る高射砲塔は異様だった。砲座へ上がる出入り口は鉄の扉で、それはチェーンで厳重に閉ざされていた。頂上まで上がることができればさぞかし眺望もいいだろうと思ったのだが、市民に全面開放していないのは、緊急時にはイミテーションの機関砲からレーダー管制の本物の対空機関砲に素早く交換するため、いまも軍の管理下に置かれていることを知ったのはずいぶん後になってからだった。
「この塔、六十年も前に作られたのね」
「大洋戦争の前の話だ」
「この街は一度だって空襲に遭っていないのにね」
「そうなのか」
「不見識ね」
「私は……ここに来て間もないんだ」
「ここ? 公園? 都野崎?」
「両方さ」
「学生さん?」
丹野美春が振り返る。まだ少女の面影が色濃い表情だった。萌黄色のコートの下は、淡い黄色のブラウスだった。
「あんたは?」
「帝大の学生よ」
「私もだよ」
答えると、丹野美春は目を細めて微笑んだ。
「奇遇ね」
きれいな声だと思った。言葉には西の……京訛りがはっきりとあった。テレビジョンやラジオや電子ネットで触れる西方言葉ではない、生の音。新鮮だった。
「何年生?」
「言ったろう。この街に来て、まだ二ヵ月とたっていないよ」
「ああ。そうね」
私の言葉にさらりと応えると、丹野美春はまた高射砲塔を見上げた。
「高いわね」
「高いね」
私も見上げた。
空はうっすらと白く濁って見えた。どこまでが空なのかつかみづらいような雰囲気。私の知らない空の色。柚辺尾の街から見上げる、くっきりと輪郭がはっきりした空とは違う、ぼんやりと温かい空だ。
「あなた、北の出身かしら」
丹野美春が言う。
「何でわかる。そうだよ、柚辺尾から」
「だって、お国訛があるもの。柚辺尾ね、ああ、知ってる。北洋州の州都」
「あんたは」
「京よ」
「首都から?」
「ううん、京のすぐそばの、……藤雅(とうが)という町。京佐電車で京からふた駅。京佐電車って、わかる?」
「さあ」
「佐摩坂(さまさか)と京を結んでる私鉄の電車」
「佐摩坂。行ったこともない」
「そうなの」
「京にも、佐摩坂にも行ったこともないさ。北洋州からは……遠すぎてね」
丹野美春と私は並ぶと、彼女のほうがやや上背があった。それでも小柄な部類であることには違いがなかった。けれど、私が北方の荒れ地に生える草なら、彼女は旧家の裏庭で育てられた草花のような印象があった。着ていた彼女のコートの色のせいかもしれかなった。
「私も、北洋州には、行ったことはないわ」
「行かなくていいさ。いまは戦争中だ」
「北方戦役ね。……ここにいると、申し訳ないけれどおとぎ話のように感じる」