トモの世界
それは命を奪う快感だった。
獲物を仕留める快感だった。
何にも代えがたい快感だった。
そして、そのことに気付いた私は、さらに自分が猟に没頭していくのがはっきりわかった。
いや、もしかするとそれは祖父に言わせると「猟」ではなかったのかもしれない。
引き金を引き、雷管が炸裂し、パウダーが燃え、弾頭が銃身を貫いていく。簡素なアイアンサイトで照準しても、私には銃弾が飛翔するその様子が分かった。撃った瞬間に当たるかはずれるかも。
以前、南波に言ったように、私に射撃のセンスがあるとは今でも思わない。数を撃てば、訓練を積めば、誰でも銃弾は的に当てられる。光学照準器があればなおさらだ。ライフルは拳銃と違い、適切な訓練を積めばかなりの精度で的に弾を当てることができる道具だった。三百メートル先の動かない訓練用の標的など、呼吸を制御するまでもなく、誰でも当てることができるようになる。最初は針の先のように見えていた的ですら、三か月も練習すれば、「当たる気」がするようになる。
私を猟へ駆り立てていったのは、自分自身の中に、標的の命を奪うことに対する快感がはっきり存在することに気づいたことだった。
だがやがてその快感に、嫌悪を伴いはじめていることにも気づいた。快感が成長しつつあったこと、そして自分が紛うことなく祖父の後継者としての資質と血を受け継いでいることにも。
祖父は生まれながらの猟師ではなかった。祖父はかつて兵士であり、優秀な狙撃手だった。
第五五派遣隊に入り、いくつもの作戦をこなし、名実ともに戦士となった今の私ならわかる。
山でシカを追うより、森の王者と対決するより、敵の兵士を、自分と同類を狙うほうがよほど簡単だ。強力な友軍のバックアップもある。なにより、今の私の獲物は私と同じ人間だ。だからこそ、行動が読みやすい。人間にシカやクマの心は永遠にわからない。だから猟は難しい。しかし戦場は違う。言葉や文化が違ったとしても、敵は同じ人間だからだ。
きっと祖父は私の資質を見抜いていたのだと思う。
だから私も気付いた。
自分の血に。
後天的に強化された血。
……殺戮者としての血。
戦士となった私は、たとえば戦場で親を喪った子がいれば、ためらいなく殺すだろう。悲しみを助長させる必要などないからだ。親を、子を、あるいは家族や友人を失った悲しみを打ち消すために、悲しむ主体を消す。それが私の考える優しさだった。悲しみも憎しみもなにもかも、その場で途切れる。逆の立場なら、親や子や家族を目の前で奪われ、そして、最愛の存在を奪った相手に報復する武器を持たないならば、その場で殺してほしいと頼むだろう。私は喪失感に打ちひしがれてその後の人生を過ごすほどに強くない。
だから、私は皆殺しにするだろう。
親を喪った子ジカを撃とうと引き金に指をかけたあの日。祖父にそれを諌められたあの日。
あれがきっと分水嶺だった。
距離を置く必要性を感じたのだ。我に返ったといってもよかった。私は数年間経験した猟生活の中で、裡に別の自分を育て上げつつあったのだ。弱くも残酷な自分自身の姿を、祖父は見えない鏡に私を映し、気付かせようとしたのだろう。だから、あのときの祖父の顔は悲しげに歪んでいたのだ。
私は北洋州から離れようと思った。
私はもともと、晩秋から初冬にかけての陰鬱極まりない風景が嫌だった。次々に葉が散り、色を失っていく山野の風景と比べるならば、真冬の降りしきる雪と民家の明かりや、凍てついて青く沈む夜のほうが好きだった。私はあの晩秋の風景からも逃れたいと思った。いやに静かで、けれど気が急いている北の大地の空気。秋の山は、誰もが気が急く。動物たちも。植物も。人間も。
四季と対峙するより、愛でることができる地域に行きたかった。
北洋州の支配者は依然として風であり雨であり雪であり森であり、動物たちだ。入植者も先住民たちも、常に自分たちよりも優位な自然と戦い続けてきた。大地は慈母ではなく、厳父だった。木を抜けば容赦なく命を奪われるのが北洋州の自然だ。いまもそれは変わらないと思う。しかし、海峡を一つ渡った内地は……都野崎は違った。土地の支配者は森や川や風などの自然ではなく、間違いなく帝国であり、そこに住む市民だった。
今までの世界とは違う、また別の世界だ。
都野崎に移り住んだのは帝大に入学した十八歳のときだ。
何もかもが違って見えた。
都野崎の広い通りは市街地を一直線に貫いており、三百年前に築かれた広大な城郭を中心として発展した都野崎には歴史があった。いや、歴史だけならば帝が居を構える京のほうが数段勝っている。数百年、千年を数える寺院、城壁、そして家々。丹野美春が教えてくれた京の街並みもまた、都野崎とは違った歴史を感じさせてくれた。だが、都野崎には京にはない活気があった。猥雑さと、昂揚感だ。
私は紀元記念公園を一人歩くのが好きだった。帝国が建国されて二〇〇〇年を記念に作られたというやたらと広い公園だった。湖のような池の周りには桜の木がびっしりと植えられ、敷地内には博物館から動物園まで建っていた。賑わいもあったが、すこし外れは人気も多くなく、私のアパートメントからも近かったから、とくに用がなくてもときおりぶらぶら木の匂いをかぎに歩いた。大学の敷地からも近かった。市街電車が走り、最新の国産の乗用車が、カタログから出てきたそのままの色と形で数百台も通りを埋め尽くしていた。私は地方出身であることを隠さなかったから、大学の教室では外国人扱いをされた。言葉のアクセントの違いもずいぶん指摘された。都野崎の帝国大学は、国内では最高位に位置づけられる学府だったが、地方出身者は全学生の内の二割程度だったと思う。ほとんどが都野崎の出身か、あるいは近郊都市や自治域の人間で占められていた。私に分け隔てなかったのは京出身の丹野美春を含めて数名だったように思う。