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トモの世界

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 風もなく、草木のざわめきもない。あたりからはすべての音が消えていた。
 私の意識は不意に遠くなり、記憶の中へと時間が逆転を始めた。


   十一、


 都野崎は広く標高の低い平野の南端に拓かれた巨大都市だ。本土に穿たれた湾に面しており、湾は広大で内海と呼んでよい面積がある。天然の良港がいくつもあった。また帝国最大の人口集積地であり、その規模は世界最大といってもいいものだ。都野崎市の周囲には無数の衛星都市が散らばっている。中世以前は草原が果てしなく続き、月も太陽も草原から出でて草原に沈むと詠われたほどの田舎だったようだが、いまから三百年ほど前にこの地を本拠とする強大なとある武家が政権を得、帝国を統一してからは激変し、世界最大の都市に成長した。三本の大きな河川と、大洋とつながるいくつもの汽水湖が都市圏東側に連なり、晴れた日に都野崎の上空を飛行すると、湖沼と内海が陽を鏡のように反射してまぶしい。
 私が生まれ育った柚(ゆ)辺(べ)尾(お)市とは文化も気候も何もかもが違う都市。私が北洋州を離れた理由……私はとにかく柚辺尾を離れたかったのだ。祖父の不器用だけれど温かいまなざしや、ユーリの朴訥な優しさ、そして厳しくも美しい北洋州の大地から。。
 なぜだろう。
 私なぜ、祖父や家族やあの森から離れたかったのだろう。
 そう、私は柚辺尾の街から、北洋州のあの気候風土から離れたかったのではなかったのだと思う。おそらく、森から、猟から、銃から、祖父から距離を置きたかったのだと思う。私はあの一時、たしかに銃を手にしたくないと思った。猟が嫌いになったのではない。私の裡に、猟へ行くごとに湧き上がってくる形容しがたい快感を、私自身が認めたくなかったのだ。
 親を失った子ジカ。
 それを仕留めようとしたこと。
 そして祖父に止められたこと。
 ユーリの青い目が悲しげに私を見つめていたこと。
 なぜか、ユーリが右手を添えていた大口径マグナム弾を発射するリボルバー拳銃の、あの秋の空を映したような蒼い銃身の色が印象深かった。
 硝煙の匂いもだ。
 狩猟の文化は現代の帝国にほとんど残っていない。もともとこの国は農耕を主とした農業国だった。だから、とりわけ射撃能力に秀でた隊員の多い第五五派遣隊に中にあっても、私のように十代から銃に触れていたという者はいなかった。
 七.六二ミリライフル弾の反動は大きかった。初めて撃ったとき、そのショックに驚きの声を上げる隊員は多い。けれど私は十代でそれを知っていた。
 本格的に自分のライフルを肩に山へ向かうようになる前、私は祖父から一通り銃の撃ち方を習った。
 立射、伏せ撃ち、膝撃ち、座り撃ち。
 半日で百発近い弾を撃たされた翌日は、肩が腫れ上がって激しく痛んだほどだった。陸軍制式の自動小銃と比べて、機構が単純だが堅牢そのものだった私のボルトアクション式ライフルは、重量が四キロほどで、猟銃としてはさほど重い部類には入らない。だから、弾薬の反動は身体で受け止めることになる。鼻を突くような硝煙の匂いも、やがて慣れた。祖父は私に言った。獣の匂いを感じろと。それは、獲物の匂いだけではなく、強烈な敵意すら漂わす最強の捕食者たるヒグマの匂いも嗅ぎ分けろという意味だった。森の中で人間はか弱い。ちょっとした天候の悪化、あるいは日没、あるいは北洋州最大の肉食獣、クマとの遭遇。経験と智慧を持たない人間は、二日と森の中で生きていくことはできないのだと祖父は言葉少なに私に説いてくれた。自然を知らない人間は、火を焚くことをしなければ、最初の夜を平静に乗り越えることすらできないのだと。祖父は言葉通り、森の中へ私を連れ出し、天幕の中でランプを消し、焚き火を熾すこともせず、自分の指先すらおぼつかない闇の中へ私を落としこんで見せた。祖父がすぐそばにいることもわからない、本物の闇。私は眠ることもできず、夜明けをシュラフにくるまってじっと待ったのだった。
 まだ十代だった。
 そうして、私は一歩一歩、祖父から森のこと、山のこと、野のことを教わった。
 罠を仕掛けて獲物を捕ること。そして、銃を使い、獲物を狩ること。
 私は銃そのものに対する拒絶感のような感情は一切持っていなかった。それは自分でも不思議だと思う。故郷で、私のような女の猟師は一人たりとも出会わなかった。だからめずらしがられ、かわいがられもした。もちろん揶揄もされたし、猟をやめるように私にやんわり説諭する人間もいた。
 しかし私は猟をやめようと思わなかったし、祖父やユーリと過ごす週末が待ち遠しかった。学校から帰宅すると、私は祖父のもとへ行き、祖父が仕掛け罠や愛用のライフルの手入れをする様子を眺めたり、作業を手伝ったりした。まったく苦痛ではなかった。同世代の少女たち、いや、少年たちですら経験できない貴重な時間を過ごしている優越を感じていた。銃の分解結合をひとりでまかされたり、金色に輝くライフル弾を磨かせてもらえるようになった日は、わくわくしてなかなか寝付かれないほどだった。
 初めてライフルを撃った日。
 もちろんその反動の大きさ、鼻を刺す硝煙の臭いにも驚いたが、なにより、撃った弾の威力の大きさに、自分自身がとてつもない力を得たような気がして、胸の裡から燃え上がるような感情を覚えた。狙った的には当たらなかったが、外れた弾がえぐった土煙りに驚いた。あたりに響き渡った自分の銃の射撃音に胸を打たれた。
 そして、初めて自分の銃で、自分の意思で、獲物を仕留めた日。
 自分の意思で、生ける命を斃した日。
 命を奪ったこと。
 戦場で初めて敵兵士を射殺した経験も、実は、十代のあの日、初めて獲物を撃ったときの経験の前では霞んでしまった。それくらいのショックが私にはあった。
 道具を持たなければ、一対一ではまともに戦うことすら難しい野生の生き物。それが、一挺の銃で有利に戦える。そして、命を奪う。私には当時から崇める神を持たなかったが、しかし、命を自由にやり取りできるのは、どこかにいるかもしれない、人智を超越した存在だけだと思っていた。それが、銃を使うことで、自分のような少女でも可能になってしまう。銃の持つ力に私はひどく心を揺さぶられていた。そして、山野をめぐり、自分が狙いを定めた獲物を根気よく追い、動きを読み、ときにはシカやクマになりきるようにして、探す。学校では絶対に経験できないことだと思った。そうだ。学校では命のやり取りについては教えてくれない。
 いつしか私は猟にのめり込んでいった。
 やはり祖父から譲られたナイフで、仕留めたシカを血まみれになって解体したときも、あたり一面に立ち込める血の匂いも嫌ではなかった。衣服が血や泥や自分の汗で汚れるのも気にならなかった。そうして、私は祖父の技術を着実に受け継ぎ始めていた。
 仕留めた獲物の数は覚えていない。数える気も最初からなかったのだと思う。一期一会という言葉は後で知った。私にとって、週末や長期休暇のたびに仕留める獲物一頭一頭が、すべてそのとき唯一の存在だった。手負いにしたこともあったが、祖父やユーリの助けも借りて、必ず仕留めた。それができるようになっていった。
 そしてあるとき私は気付いた。猟に、私が快感を得ているということに。
作品名:トモの世界 作家名:能勢恭介